「花燃ゆ」についてのつぶやき 第1話〜第17話 まとめ

「花燃ゆ」についてのつぶやき。ナレーションによると嘉永三年(1850)ですから松陰21歳、この歳九州遊歴の旅をし長崎にも足を伸ばしています。松陰の身分が毛利家の兵学師範ということもポイントでしょうか。
八重の桜のイメージとも重なる印象を受けました。玉木文之進ストイックですね。次回どうなるのでしょうか?

「花燃ゆ」についてのつぶやき。テロップによると嘉永4年(1851)ですから、松陰22歳。3月には参勤交代に伴い江戸に入っています。安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山等に学んでいます。6月には宮部鼎蔵と相模や安房の沿岸部の調査をしています。そして12月14日には通行手形を待たす毛利家江戸屋敷を飛び出してしまうのです。これは同志である江幡五郎の仇討ちを赤穂浪士の故事に倣って成就させようとしたものだと言われています。江戸屋敷を飛び出した罪を問われ、松陰は萩に帰国します。

そして翌年の5月から萩で謹慎生活を送ることになるのです。
ナレーションで多く触れられていましたね。
次回はどうなるのでしょうか?

「花燃ゆ」についてのつぶやき。ナレーションによると嘉永6年(1853)6月、松陰24歳。この年の6月3日にいわゆる黒船がやってきます。
松陰はこの報に接し6月4日浦賀に急行し黒船を目撃しています。
6月7日毛利家は江戸大森の警備を徳川家より命じられています。
次いで9月7日には周布政之助が政務役に任じられます。9月18日、松陰はプチャーチンの船に乗り込むために江戸から長崎に向かいますが既に10月23日プチャーチンの姿はありませんでした。10月27日松陰は長崎にたどり着きますが虚しく萩へと立ち戻りました。
11月14日毛利家が相州警備を命じられます。

また、松陰は11月25日に再び江戸遊学を許されています。そして翌年の3月5日には下田へと向かうのですがそれは次回以降の話になるのでしょう。久坂玄瑞が登場しましたがこの時は14歳でした。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政元年(1854) 、松陰25歳。3月5日に松陰は同志である金子重助とともに停泊中のペリー艦隊に乗り込むために下田に向かいます。いわゆる「下田踏海」事件です。松陰がベリーの黒船に乗り込もうとした理由は松陰が世界情勢を見聞したいと考えたからと言われてきましたが、近年では実は松陰はベリーを殺害するつもりであったのだとする説も提出されています。「下田踏海」事件については海原徹氏の『吉田松陰』(ミネルヴァ書房、2003年)や川口雅昭氏の『吉田松陰』(致知出版社、2011年)などに詳述されています。3月27日、松陰たちはポーハタン号への乗り込みを試みますが通詞のウイリアムスに乗船を拒否されます。これにより計画は失敗。松陰たちはボートで送り返され翌日名主宅へ自首。9月18日国許から松陰へ蟄居の幕令が下されます。10月24日松陰は萩へ送還され野山獄に投獄されます。
次回はどうなるのでしょうか?

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政元年(1854) 松陰25歳。10月24日、松陰と金子重助は萩に送られてきました。松陰は士分の野山獄に足軽の金子は百姓牢である岩倉獄にそれぞれ収容されました。

野山獄の向かいに岩倉獄はあったといいます。
松陰が収容された野山獄には、高須久子や富永有隣らを含めた11名の人物がいたようです。いずれも親戚から疎まれ遠ざけられた人々が野山獄にいれられていたようです。
獄は開放的とは言わないまでも書物や筆記用具などは比較的自由に持ち込めたそうです。兄である梅太郎が松陰のもとへ書籍を運んだといいます。
安政2年(1855)1月11日金子重助死去。享年25。萩へ護送される頃には既に肺を病んでいたといいます。

今回のお話でひとつ気になったことがあります。小田村伊之助と桂小五郎、西郷吉之助が初めて挨拶を交わすシーンがありましたが安政2年の段階ではあり得ない話ではないかと思います。西郷が主君島津斉彬の参勤交代に従って江戸入りを果たしたのが3月6日のことです。
桂は江戸にいたようですが…。

2人が出会うのは慶応2年1月8日薩長盟約締結のため桂が京都薩摩屋敷に入った時ではないでしょうか。
次回以降、松陰は「覚醒」してゆくのでしょうか。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政2年(1855)、松陰26歳。今回のお話のメインはなんといっても高須久子、この人に尽きるでしょう。
久子は松陰が入獄した安政元年の時点で39歳、在獄4年目でした。

高須家の未亡人であった久子は三味線や唄などを好んだ教養溢れる女性だったようですが不義密通の罪を問われ野山獄へ投じられます。明治元年に出獄したといわれています。投獄中、久子には松陰との間に密かなロマンスがあったともいわれていますがどうなのでしょうか。

ひとついえることは久子はミステリアスな女性ということでしょう。娘・糸とのエピソードは詳細がわかりませんのでひょっとしたらフィクションかもしれません。

松陰を始めとした獄中の「講義」は遅くとも安政2年の4月までには始められていたようです。同じ頃、小田村伊之助は江戸から萩へ呼び戻され藩校・明倫館の新館の舎長・書記兼講師に就任しています。この時伊之助27歳でした。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政2年(1855) 松陰26歳。4月12日頃より、『孟子』を中心とした松陰たちの「獄中講義」が始まりました。同じく野山獄の吉村善作は俳諧の講義を行い、富永有隣は書道の師となりました。これに司獄の福川犀之助も加わり、松陰たちの獄中講義は一定の成果をみせたようです。このような状況のなか、「福堂策」が6月1日と9月21日の2度にわたって脱稿されました。アメリカに倣い、獄の状態を改善しようと試みたこの福堂策は松陰なりの性善説に根ざしたものであったといえるでしょう。松陰が野山獄での約1年間の日々を経て出獄したのはこの年の12月15日のことでした。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政2(1855)年12月15日に松陰が獄を出、実家の杉家で蟄居したのは前回観た通りです。
実は「松下村塾」は松陰の叔父である玉木文之進天保13(1842)年萩松本村の自宅で始めたものだったのです。松陰や兄・梅太郎もここに通ったそうです。文之進が明倫館教授に就任したことにより「松下村塾」は1度は自然消滅。その村塾を引き継いだのは松陰の縁戚である久保清左衛門でした。つまり松陰はかぞえて3代目の塾頭になるわけです。
松陰が松下村塾で本格的に教鞭をとったのは安政3(1856)年の3月頃だといわれています。この時松陰27歳。初期の塾生である吉田栄太郎などは11月25日という入塾日まではっきりしています。
そして今回の主役ともいうべき久坂玄瑞はこの年17歳。3月には九州遊学をしています。久坂は安政3年5月より3度の書状での議論をへて松陰の門弟になります。
ずいぶんドラマチックに描かれていましたね…。
次回は高杉晋作が登場するようですね。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政3年(1856)〜安政4年(1857)頃でしょうか?松陰26〜27歳。安政3年頃に形作られてきた松下村塾には以前から松陰と親交のあった僧月性に教えを受けた赤根武人や前回観た久坂玄瑞など多くの人々が集っていました。高杉晋作松下村塾に「入門」したのは安政4年の8月とも、9月ともいわれています。晋作19歳のことでした。
高杉晋作天保10年(1839)8月29日に高杉家の長男として生まれました。高杉家は毛利家当主付といってもよい名門でした。松陰はプライドの高い晋作をもう一方の秀才である久坂と競わせ磨いていったようです。周囲より家格の高い晋作の存在は松下村塾のなかでも注目を浴びていたことでしょう。
松陰の下に集まる人々は日々「政治談義」を戦わせていたそうです。
10月松陰は野山獄囚の釈放を願い出6名が獄を出ています。
12月、松陰は萩にやってきた梅田雲浜に面会し政治議論を交わしています。ただしこの時が初対面ではないようです。
そして安政4年7月25日には野山獄を出獄した富永有隣を松下村塾の教員に迎えています。
今回活躍した敏三郎、エピソードはフィクションでしょう。彼はハンデキャップを抱えながらも写経などを黙々とこなす静かな人物であったようです。残された写真は松陰に瓜二つであったそうです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政4年(1857)8月頃〜11月頃でしょうか。松陰28歳。
吉田栄太郎(稔麿)が松陰の門人となったのは安政3(1856)年11月25日16歳の時でした。もと久保塾生であった稔麿は安政4年8月御供小使として三たび江戸に向かいます。今回稔麿が初めて江戸に行くかのような描写がされていましたがフィクションでしょう。高杉晋作は江戸に行く稔麿に向けて「無逸(稔麿)の東行を送る序」というはなむけの詩を贈っています。
同じく久保塾生であった伊藤利助が入塾したのが安政4年9月でこの時17歳。
同月 高杉晋作 19歳、秋には佐世八十郎 24歳と続々と入塾希望者が現れます。そして11月には杉家の宅地内に八畳一間の塾舎が増築されるのです。
次回は久坂が再びメインになるのでしょうか。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政4(1857)年11月頃でしょうか。松陰28歳。佐世八十郎と久坂玄瑞が主役の回でした。佐世八十郎こと、前原一誠天保5(1834)年毛利家上級家臣の家系に生まれました。17歳の胸と足を強打。それ以来前原は健康問題に悩まされることになります。この事故は前原の生涯に暗い影を落としたようです。勉学の傍ら農漁業や陶磁器製作に精を出していた前原が松陰と出会ったのは24歳の時。わずか10日ばかりの入塾でしたが頼山陽の『日本政記』を精力的に学んだそうです。ちなみに彼が前原姓を名乗るのは慶応元年(1865)以降のことです。
安政4年12月5日久坂玄瑞は文と婚約します。久坂玄瑞この時18歳。以降久坂は杉家の人々と同居します。久坂は文を好みではない、と一旦縁談を断りますが中谷正亮に推されて文と婚約したとのエピソードが残されています。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政4年(1857)12月〜安政5年(1858)4月頃でしょうか。松陰 28〜29歳。安政4年12月5日久坂玄瑞は文と婚約します。久坂18歳 文15歳のことでした。
松陰は文へ「文妹の久坂氏へ嫁ぐに贈る言」という詩を贈り久坂と文を激励しています。
久坂は杉家に同居し勉学に励みながら松陰をよく援けたといいます。今回ずいぶんコミカルに描かれていましたね。安政5年正月久坂は江戸遊学を許されます。西洋医学修行及びその基盤となる蘭語習得がその名目でしたがそれは表向きのことで諸国名士との交流し見識を広めることが江戸遊学の本来の目的でした。久坂の江戸遊学に対し「實浦(久坂)よ行け」を餞別の詩を贈っています。久坂が江戸へと旅立ったのは2月20日のことでした。3月13日大阪、16日には京都に入り、江戸についたのは4月7日のことでした。そしてナレーションでも触れられていた通り4月23日には彦根井伊家当主 井伊直弼大老職に就き時代は新たな局面を迎えるのです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政5(1858)年4〜7月頃でしょうか。松陰29歳。久坂玄瑞19歳。安政5年4月23日彦根当主 井伊直弼大老に就任して以来、公儀(幕府)は6月19日に日米修好通商条約を締結。ついで6月25日には13代将軍家定の後継として紀州慶福(後の家茂)が指名されます。これにより7月5日徳川慶喜を推した松平慶永ら、いわゆる「一橋派」に隠居謹慎等の命が下されます。翌7月6日家定が死去。
公儀は7月11日にはロシアと7月18日にはイギリスとそれぞれ通商条約を結びます。

久坂はそのような最中の7月18日に入京し、24日には梅田雲浜宅でわらじを脱いでいます。
コレラが日本で猛威を奮ったのはこの年の8月頃だといわれています。

小野為八は弘化元年(1845)に松陰に兵学を学び安政5年30歳のときに松下村塾に入門しました。
まさに時代は「内憂外患」の季節を迎えていたのです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政5(1858)年9月頃〜12月。松陰29歳。勅許(朝廷の許し)を得ないまま諸外国との条約を締結した公儀(幕府)に不信感を抱いた朝廷は、「勅許を得ず条約を締結したことは不審である。この上は速やかに尾張・水戸家当主の謹慎を解き、諸大名の協力を仰ぎ、政治を安定させて欲しい。公と武が一致すれば憂いもなくなるだろう」とする、本来公儀に下すべき詔勅安政5年8月8日直接水戸徳川家へと降し、さらに諸大名へも回覧しようとしました。これを、密かに下された詔勅ということで密勅、さらにこの年の干支にちなみ戊午(ぼご)の密勅といいます。徳川家からすると戊午の密勅は朝幕関係を蔑ろにするようにうつったのです。
9月より密勅に関わった者への捕縛が始まりました。いわゆる安政の大獄です。9月8日には梅田雲浜が捕縛されます。梅田捕縛の場に久坂が居合わせたのか不明ですが…。
9月9日、松陰は松浦亀太郎紀州家家老 水野土佐守襲撃を提案しています。また松陰は10月頃赤根武人に獄に繋がれた梅田を救出するために伏見獄破壊を提案。ちなみに赤根は梅田とともに捕縛されますが9月17日に釈放され、赤根は翌年まで萩で謹慎を余儀なくされます。
11月頃松陰は安政の大獄の実質的指導者である老中間部詮勝要撃を企てます。武器の貸出しを願い出ますが、徳川家との関係性の破綻を恐れた毛利家政府は松陰の企てを拒否。松陰を支えてきた祐筆の周布政之助は特に異を唱えたといいます。数々の計画に失敗した松陰は「学術純ならず。人心を動揺す」との理由で11月29日に自宅謹慎を言い渡されます。そして12月26日には再び野山獄に投ぜられるのです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政5(1858)年12月頃〜安政6(1859)年3月頃でしょうか。松陰29〜30歳。
安政5年12月26日松陰は再び野山獄に投ぜられました。この松陰再投獄に憤り、佐世八十郎、作間(寺島)忠三郎、品川弥二郎、吉田栄太郎ら8名は毛利家政府重役を厳しく弾劾しましたが失敗に終わります。この際、周布政之助は自宅の裏門から慌てて逃れ去るという一幕もあったようです。
さて再び野山獄に投ぜられた松陰でしたが、その環境は1度目と同じようにかなりゆるやかなもので比較的多くの知己友人との面会や書簡往復などが許され、また以前のように句会も開かれていたようです。獄中においても松陰は当時、過激派公家であった大原重徳を擁して毛利家以下西国諸家で決起しようとした「大原三位下向策」や伏見襲撃を試みた「伏見要駕策」を計画しますがいずれも失敗に終わっています。同志のほとんどが松陰の急激な思想について行けず、その過激な発想をたしなめる久坂や高杉に対して「僕は忠義をなすつもり、諸友は功業をなすつもり」と認めたのはよく知られた逸話です。数々の計画が失敗に終わった3月頃、松陰は在野の人々(草莽)があらゆる可能性を信じて動き出すべきであるとする「草莽崛起」論を唱えたのでした。

 「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政6(1859)年4月頃〜5月。松陰30歳。
安政6年4月20日、公儀(幕府)より毛利家江戸屋敷へ松陰の身柄引き渡しの命がくだされました。松陰自身は、5月14日に兄の杉梅太郎からこの報せを受けています。
折しも江戸では先年9月頃より安政の大獄の嵐が波及していました。松陰の今までの過激な策が公儀に洩れたのではないか、と毛利家政府は焦りの色を隠せなかったようです。
5月21日、松陰の不帰を予期した久坂玄瑞らは画の心得のある、松浦亀太郎(松洞)に松陰の肖像画を描かせます。松陰はその肖像画に賛(文章)を記しています。5月24日、福川犀之助の独断で松陰は杉家に戻ります。家族や友人に別れを告げるためでした。(福川はこの行動で10日の謹慎処分を受けています)。母滝は風呂で松陰の背中を流しながら言葉を交わしたといいます。
翌5月25日松陰は30人に護送され萩を立ちました。30人という仰々しい人数は同志大高又次郎らによる松陰奪還計画を恐れたためだといわれています。
萩城下を出立した松陰の駕籠は途中、松陰の要望を容れ「涙松」で小休止します。萩を旅立つ人はこの老松をみて別れの涙を流し、萩へと戻ってきた人は喜びの涙を流すという故事から涙松と呼ばれたそうです。松陰はこれからの旅を想い「帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな」と残しています。

 「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政6(1859)年6月頃〜10月。
5月25日に萩を出立した松陰が江戸に着いたのはそれから1か月後の6月25日のことでした。
7月9日には久貝因幡守・池田播磨守・石谷因幡守3名の閣僚による松陰への尋問が行われました。その議題は梅田雲浜との交流の有無、御所内の、公儀批判をした落とし文が松陰の手になるものか否か、でした。松陰は梅田との交流については、(萩城下を訪ねた際)学問上の議論をしたに過ぎず格別の用事があったわけではないと答え、なおかつ梅田は自分を子ども扱いするところがあり、ともに事をなす同志ではないと付け加えています。

落とし文については、自分は落とし文のような姑息なやり方は好まず、使われている用紙も自身のものではない、と否定しました。

松陰への尋問は一通り終了し、石谷たちは松陰の情勢認識に関心を持ち現今の国事について松陰に尋ねました。松陰は自らの履歴と国事についての問題認識を縷々語ったといいます。そして、この雑談ともいうべきなかで「自分には死罪にあたる罪が2つあるが周囲の者に迷惑がかかるのでいいたくない」といいながら、「大原三位下向策」および「間部老中要撃策」について口を滑らせてしまうのです。間部老中要撃に動揺した幕閣は松陰を伝馬町の獄に投じました。松陰は9月5日、10月5日と取り調べを受けましたがとりわけ進展もありませんでした。しかし10月16日の審議は非常に厳しく「公儀に対し不敬の至り」、「御吟味を受け誤り入り奉り候」とのかどを以て安政6年10月27日松陰は斬首されます。吉田松陰 享年 30。 ちなみに井伊直弼と松陰の対面はフィクションです。の最期は少し取り乱したものであったとも、静かなものであったともいわれています。松陰の幽霊はいただけませんねえ…。
いわゆる「安政の大獄」の嵐が過ぎ去るのはこの年の12月以降のことでした。

 論文感想 藤田英昭氏論文 「徳川慶勝の幕末『異郷』体験」を読む

平成二十六年新宿歴史博物館「高須四兄弟」展展示図録所収の藤田英昭氏の論文「徳川慶勝の幕末『異郷』体験」を紹介したい。論文の筆者である藤田英昭氏は幕末維新期の徳川家や、草莽(一般には「志士」と呼ばれる)など多岐に渡る研究をしている方である。
近年「高須四兄弟」が有名になっている。「高須四兄弟」とは尾張徳川家の分家である「高須家」出身の四人を指す。
次男であり、本論文の主役でもある尾張徳川家当主徳川慶勝は第一次長州戦争時に長州の処分を寛大に処置したことで有名である。五男の徳川茂徳(もちなが)は、慶勝が安政の大獄で隠居した際、義勝の後を継ぎ文久三年まで、尾張徳川家第当主を務めた。慶勝が藩政に復帰すると尾張家内部は慶勝派と茂徳派に分裂した。このため茂徳は隠居し、慶応二年になって一橋家を相続した。七男の松平容保会津藩主、八男の松平定敬桑名藩主となり、京都守護職京都所司代としてそれぞれ活躍し維新に際しては戊辰戦争を戦い抜いたことはよく知られるところである。
さて、本論文は文久三年の将軍上洛に先立って京都に足を踏み入れた徳川慶勝が「異郷」の地ともいえる場所でいかなる日常を送りどのような思いで彼の地の風俗や社会をみていたのか、ということが丁寧に述べられている。以下みていきたい。慶勝は西洋諸国との対峙のため、富国強兵や国内の安定が不可欠であると考えていた。慶勝が考える国内安定の状態とは朝廷と幕府が一致した状態であり、そのうえで当時の対外課題となっていた「攘夷」の指揮を「征夷大将軍」たる徳川家茂自らが行うことが前提とされた。さらに慶勝は諸大名を圧倒する武威発揚に積極的であり、徳川家の「御武運」回復のためには「帝坐御守衛」(京都を守ること)は将軍や徳川家門が独占的に当たるべきだと認識していた。
そのような立場の慶勝が上京したのは文久三年正月八日のこと。正月十五日には、初めて御所に参内し天拝を賜った。
慶勝の京都での宿泊先は縁戚にあたる近衛家の別邸である河原御殿であった。
この、御所近くの河原御殿を拠点に慶勝の「国事周旋」が行われた。河原御殿には松平容保や幕閣などが頻繁に訪れ慶勝と「御用談」を行った。「将軍捕翼」に任じられた慶勝は将軍家に次ぐ、従二位前大納言として、尊王攘夷の旗頭・水戸徳川斉昭の甥として草莽層の期待を受けながら公武周旋に尽力していったのである。
本論文は以上のような状況を踏まえつつ、慶勝の自筆記録「西上記」などを通して、彼がみた「異郷」を繊細に描写している。
「西上記」に収録された、「うつヽにも夢にもみえぬ雲の上にのほるは君の恵なるらむ」という和歌には上京を果たし、御所に初めて参内した慶勝のこの上ない感動が表れている。
この他にも「西上記」には「東之風光」として河原御殿の慶勝の部屋から見える風景を、「風光十分にして、加茂川自南北に流れて洲広し、かり橋かヽりて往来之人多し、二条之はしより三条之橋迄之間也、白ぬの沢山々々州にさらし有て如雪にみゆる」とその趣を記している。
また、松平容保が黒谷の金戒光明寺京都守護職の本陣を置いたのは当時の法主・定円が高須関係者であり、容保と黒谷を結ぶ接点に高須が介在したという事実は兄弟たちにとって「共通認識」だったのだろうという指摘は、非常に興味深く「高須四兄弟」、ひいては幕末維新史を考える上で重要であろう。
慶勝は京都の名物として「牛ノクソ(糞)」・「人のクヒ(首)」・「風邪」などを挙げている。
「牛ノクソ(糞)」は牛車の往来が頻繁なこと、「人のクヒ(首)」は当時攘夷派による「天誅」が流行し被害者の首が公家の屋敷に投げ込まれたことなどを指していよう。「風邪」は当時の京都が非常に寒く慶勝自身も風邪に悩まされていたことによろう。
慶勝は不本意な「将軍捕翼」就任や「井の内のかわづのごとき」公家衆との交渉や「国事周旋」に心身ともに疲れ果てていたのではないだろうか。京都の風景が慶勝を癒すことはなくなっていたのである。
そして慶勝は「田舎之戸山ニ住みなれたれハ、中々夫ニハ及かたし、是を以て考るニ故郷ニしくわなし」と「西上記」に書き付け、自身の生誕地である四谷上屋敷と「故郷」である「田舎之戸山」(尾張下屋敷)を強く懐かしむのであった。

今回の藤田氏の論文は、慶勝がみた「異郷」を丹念に映し出すことによって、慶勝の強い「故郷」への想いをも反射させているように思われる。「故郷」の「戸山」と慶勝のアイデンティティーが深く、強く結びついていることがわかる。また、京都を分析対象することで「場所」が個人にどのような影響を与えているのか、という良い例を示している。
慶勝の心のひだにまで入り込み、彼がみた京都を追体験できるかのような考察は歴史を研究する醍醐味を教えてくれる。
そして何より藤田氏の慶勝に対する鋭い分析と優しいまなざしが印象に残った。

家近 良樹氏『人物叢書 徳川慶喜』

評者は家近良樹氏(以下 著者)の書籍が好きだ。『幕末維新の個性1 徳川慶喜』など大学時代に夢中になって読んだことを昨日のことのように覚えている。本書『人物叢書 徳川慶喜』は著者にとって上記の『幕末維新の個性1 徳川慶喜』(吉川弘文館、二〇〇四年。)、『その後の慶喜』(講談社選書メチエ、二〇〇五年。)、に続く三冊目の徳川慶喜論である。

著者は「血統」から慶喜を語り始める。すなわち父・斉昭から受け継いだ、(水戸学に象徴される)「尊王家」たる水戸徳川家と、母・吉子女王から受け継いだ、(さかのぼれば霊元天皇にまでたどり着く)有栖川家の血筋、この朝幕双方の「血」を受け継いだことが慶喜の行動や生涯を後々まで規定したのだという。慶喜は弘化四(一八四七)年、十一歳の時、将軍家の一門である「一橋家」を相続し、「将軍継嗣問題」で十四代将軍候補に推されて以来、当人の好むと好まざるとに関わらず政局の渦に巻き込まれてゆく。安政の大獄で隠居した慶喜が「政治家」として復帰を果たすのは文久二(一八六二)年、二十六歳のことであった。慶喜は政界復帰後、京都で将軍後見職や、禁裏御守衛総督として政局にあたることになるのだが、著者は京都での慶喜の政治活動(特に禁裏御守衛総督就任)に関して(軍事力を持たない一橋家の当主である慶喜が)朝廷との結びつきを強め、自らの政治基盤を朝廷に置き、徳川家の人間でありながら「朝臣化」の度合いを強めたと評価している。このように禁裏御守衛総督であった慶喜禁門の変前後に会津松平容保・桑名の松平定敬とともに「一会桑」なるグループを形成し政局の運営にあたることになる。しかし第二次長州戦争時における家茂死後の慶喜出陣の対応(慶喜が出陣を明言していたのに自らそれを反故にした)をめぐって対立し、一会桑は分裂。ここには柔軟に時勢の変化に対応しようとする慶喜とあくまで幕府を念頭に置いている容保の差異がみてとれると著者は指摘する。このように京都での政治家経験豊富な慶喜が将軍に就任(いわゆる「慶喜政権」が誕生)したのが慶応二(一八六六)年十二月であった。「慶喜政権」の特色としては慶喜自らが「動きを起こす」ざっくばらんな将軍であったにもかかわらず、幕臣外様大名からの人気が得られず朝廷勢力を基盤とせざるを得ない政権であったということである。孤立した将軍であったともいえるかもしれないがだからこそ小松帯刀後藤象二郎を巻き込んで―まるで芝居のように「大政奉還」を行えたに違いない。大政奉還後の慶喜の評価の高まりから新政権内部での議定の職が保障されるはずであったことも忘れてはなるまい。新政権へのスムーズな移行のために王政復古の際会津を押しとどめたのも慶喜その人だったのである。朝廷への崇拝の念により鳥羽伏見戦争では失態を演じるが、そんな局面を乗り越えた慶喜であったが故に明治期(特に十年代)は幸せであったのだろう。

また著者は「強情」で民衆や部下に対する配慮を欠いた、「醒めた眼」を持った慶喜のマイナス面も丁寧に描き出しているがそれでもどこか著者の慶喜への想いが感じ取れるのは評者だけであろうか。グレングールドのピアノの調べのような「試み」は見事に成功しているといえよう。

幕末維新史雑考

大河ドラマ「八重の桜」で幕末維新史が注目を浴びている。ここでは筆者が幕末維新史を勉強しながら気になっていることを取りあげてみる。幕末の志士の代表格といえば坂本龍馬という名前を頭に浮かべる方が多いだろう。しかし龍馬の事績を史料で分析をすることは意外と難しい。例えば龍馬の業績の一つとして有名な「船中八策」であるが、この「船中八策」は原本が存在しない。原本が存在しないということは本来であれば、写本も存在しないということである。つまり「船中八策」は後世に作られたエピソードであったということになる。さらに龍馬の「暗殺」、殺害についてであるが、この暗殺に関しても京都見廻組以外の関与を見出すことは難しい。また見廻組の立場からすれば「公務」として龍馬を斬ったのであるから単純に「暗殺」とは言い難い。また龍馬の殺害を指示したのは薩摩だとする説をたまにみかける。武力で「倒幕」(個人的にはこの言葉があまり好きではない)を行おうとしていた薩摩が、政権返上(大政奉還)運動に邁進していた「平和主義者」龍馬を疎ましく感じ殺害を命じたというものだ。龍馬は「平和主義者」ではない。龍馬は当時、生まれ故郷である土佐を薩摩と長州に並び立たせようと必死だったのである。「薩摩龍馬殺害説」は「薩土盟約」解消後、薩摩と土佐の連携が決定的に破綻していることが前提である。しかしそのようなことはありえない。かりに土佐の人間である龍馬を薩摩が手にかけることにどのようなメリットがあったというのだろうか。筆者は龍馬の真骨頂は「草莽(志士)」の集団の有能な「巨魁」、リーダーであったということに尽きると考えている。「亀山社中」という「草莽」集団をまとめあげながら、薩摩・長州・土佐間の周旋に尽力した―これこそ龍馬の魅力ではないだろうか。さて龍馬エピソードにも必ず登場する「大政奉還」。これを実行したのは第十五代将軍徳川慶喜である。筆者は近頃慶喜に関してもいろいろと考えている。その一つは慶喜の「血脈」を巡る問題である。慶喜は「鳥羽伏見戦争」のあと、大坂城から「脱出」する。その遠因は慶喜が水戸家と朝廷双方の血を引き、さらにさかのぼれば霊元天皇にまで行き着くといった彼の「血脈」による。この「血脈」のため慶喜は朝廷に弓を引くことが出来なかったのではないか。「政治家」としての慶喜を支えた人々は数多く存在したが、筆者はその中でも特に徳川慶勝徳川茂徳(もちなが)・松平容保松平定敬の高須松平家尾張徳川家の分家)出身の兄弟たちを重要視している。それはこの兄弟が慶喜の親戚であり、さらに慶喜が容保・定敬とともに一時期、「一会桑」と呼ばれるグループを形成し、京都政局に影響を及ぼしたということからもわかる。慶喜はその「血脈」を常に意識しながら行動していたに違いない。慶応二年十二月、将軍に就任した慶喜は翌年十月には「政権返上=大政奉還」を行う。二つ目はこの「大政奉還」についてである。「大政奉還」に関しても、慶喜が政権返上後、再び朝廷から政権が返上されることを予期し、「大君」(将軍)制国家」を造りあげようとしたとの説もあるが、大政奉還を行う時期に慶喜が最も恐れていたと思われるのは「内乱」である。やはり近々開かれるであろう「諸侯会議」を待って様子を見ながら、自らの行動を決定しようとしていたのではないだろうか。三つ目は慶喜の住まいの問題である。つい先日京都へ行き、慶喜が京都で使用していた屋敷(若州屋敷、「京都御旅館」ともいう)跡を見学した。慶喜は将軍就任後もすぐには二条城に入らずしばらくの間、この若州屋敷を利用した。この屋敷は非常に広く、二条城や大名屋敷にも、親交のあった新門辰五郎の宿舎「来迎寺」にも非常に近い。若州屋敷はまさに慶喜を「政治家」たらしめた場所であったのだろう。慶喜に限らず、幕末維新期の人物がどこに住んでいたのか―は見過ごしがちであるが興味深い問題である。

(例えば龍馬が三十三間堂近くの「大仏」に暮らしていたことが近年明らかにされたように)。
このようなことをここしばらく考えつつ、もうしばらくしたら勝海舟慶喜の関係なども勉強してみたいと考えている。

長文にお付き合いくださりありがとうございました。

「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第11話 感想

「八重の桜」第十一話。「守護職を討て!」。お話の時期は佐久間象山が殺害され、さらには「禁門の変」の直前期となる元治元(一八六四)年七月。八重二十歳。元治元(一八六四)年七月十一日、佐久間象山は以前より親交のあった山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)を訪ねますが、山階宮が不在であったため、代わりに山階宮の執事・国分番長に面会し半刻(約一時間)ほど話し込み、山階宮邸を去りました。その後、門人である蟻川賢之助(ありかわけんのすけ)と三沢刑部(みさわぎょうぶ)を訪ねますが両人ともに不在。酉刻(午後五時頃)愛馬「王庭」に跨り、使用人である半平とともに三条上る木屋町に差し掛かったところ、肥後の河上彦斎・讃岐の松浦虎太郎らに襲撃され、象山は十三ヶ所の傷を受け絶命しました。佐久間象山享年五十四。信州松代真田家では象山が「後ろ疵を受けて絶命したことは武士にあるまじき醜態」であると断じ、七月十四日、佐久間家の知行及び屋敷を召し上げ、象山の息子・格二郎に蟄居を命じました。格二郎はその後新選組に入隊し三浦 啓之助(みうらけいのすけ)と名乗りますが、この、格二郎の新選組入隊には覚馬と勝海舟の尽力がありました。「池田屋事件」直前の六月四日、長州毛利家の京都「進発」が決定します。六月十二日には池田屋事件前後の「京師擾乱(けいしじょうらん)」の状況を受けて、進発を「一時見合わすべし」とする来島又兵衛と、「片時も猶予成り難し」とする久坂玄瑞入江九一との間で論争が起きました。六月十五日来島又兵衛他久坂・真木和泉が京都へ向けて出立。六月二十六日には長州屋敷に潜伏していた浪士たちが「脱走」しました。翌六月二十七日には「浪士鎮撫」の目的で来島又兵衛天龍寺に派遣されます。これが長州毛利家の京都「進発」に誤解され、諸大名を巻き込んだ騒動になったようです。この時病にあった容保も出動しています。以上のような状況を受けて元治元年七月十八日深夜、一橋慶喜は長州毛利家「排除」を決定し孝明天皇に勅許を賜るのでした。「鉄砲」を広めるために「別選隊」に加わりたいという三郎の志とそれを支える山本家もいいですね。

 参考文献: 大平喜間多氏 『佐久間象山』 (吉川弘文館、一九八七年。)

     中村武生氏『池田屋事件の研究』(講談社現代新書、二〇一一年。)

「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第10話 感想

「八重の桜」第十話。「池田屋事件」。お話の時期は(テロップでは元治元年四月となっていましたが)佐久間象山が上洛を果たした元治元(一八六四)年三月頃から新島七五三太が函館からアメリカへと「密航」した元治元年七月頃でしょうか。八重二十歳。元治元年三月二十九日、将軍・徳川家茂の命(実際には禁裏御守衛総督であった一橋慶喜の要請)により佐久間象山が入京。四月三日には二条城を訪れています。四月十日には「開国」を志向していた皇族・山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)に面談。象山は晃親王天文学や西洋兵法を語り大きな信頼を得たようです。次いで四月十二日には一橋慶喜に面談。この時期になると、「天下治平」の策≒開国論を掲げていた象山の名声は京都政局に響き渡っていたようです。五月一日には将軍・家茂に拝謁。五月三日と十五日には山階宮晃親王の弟である中川宮に面会し、時勢を論じています。この間、象山は薩摩島津家家臣・高崎正風や西郷吉之助などの訪問も受けているようです。これと前後して象山は覚馬や同じく会津松平家家臣の広沢富次郎らと密議を凝らし、孝明天皇を御所から彦根城に移さんとする「彦根遷都」を計画します。これは会津松平家の兵力を動員し、混乱の続く京都周辺から彦根に御所を遷し、孝明天皇を守護するという計画でした。覚馬が洋学所を開いたのもこの頃のようです。そのような状況下の元治元(一八六四)年六月五日「池田屋事件」が起こります。「池田屋事件」には意外に知られざる面が多いのです。文久政変(文久三<一八六三>年)以降長州毛利家の家臣たちは上京を果たそうと必死に活動を続けていました。毛利家家臣たちは朝廷との交渉役として、父が山科毘沙門堂門跡に仕え、また自身も長州毛利家の遠戚にあたる古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)に期待をかけていました。 当時、会津松平家・薩摩島津家と協力関係にあった尹宮の屋敷の「放火」計画の「噂」があったようです。新選組は事前に、その「噂」をつかみ、(その際、坂本龍馬の居宅も襲われています)会津松平家に連絡。会津松平家は対応を慎重に協議し長州毛利家と全面対決も辞さない覚悟であったともいいます。そしてそのような不穏な空気が漂う元治元年六月五日、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎が新選組に捕縛されます。これを受けて親毛利家の浪士たちは「古高奪還計画」をたてます―その会合が「池田屋」で行なわれます。この「池田屋」で「古高奪還計画」の会合中に親毛利家浪士が新選組に捕縛されたわけです。吉田稔麿沖田総司には斬られたわけではないらしく(吉田稔麿文久三年以来、毛利家と徳川家との関係修復を模索し徳川家にもそれを望まれていました)、桂小五郎が事件当夜、池田屋におり屋根伝いから逃げたことを明らかになっています。また「池田屋事件」の以前から毛利家内に「京都進発論」がすでに存在したことも重要でしょう。覚馬が池田屋にやってきたのかどうか・・・?です。元治元年六月十四日、新島七五三太が函館からアメリカへと「密航」します。七五三太の「密航」には坂本龍馬の親戚である沢辺琢磨が関わったといわれています。

参考文献: 青山霞村氏『改訂増補 山本覚馬伝』(京都ライトハウス、一九七六年。) 
     大平喜間多氏 『佐久間象山』 (吉川弘文館、一九八七年。)
     中村武生氏『池田屋事件の研究』(講談社現代新書、二〇一一年。)
                                          

「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第9話 感想

「八重の桜」第九話。「八月の動乱」。お話の時期は「文久政変」―八月十八日の政変―が計画、実行された文久三(一八六三)年八月から翌元治元(一八六四)年の三月頃まででしょうか。八重十九歳〜二十歳。文久三年八月以前の朝廷は三条実美などの「即今破約攘夷派」が幅を利かせていました。「即今破約攘夷派」は(穏健に「攘夷」を行いたいと考える孝明天皇の意思を超えて)、「大和行幸」を行い「攘夷」を祈願すべく動いていました。そのような状況下の文久三年八月十三日、薩摩島津家家臣・高崎正風は秋月悌次郎に面会。高崎は秋月に朝廷の現状を説き、最近の勅旨は三条実美真木和泉らによる「偽勅」であり大和行幸も三条・真木らによる画策であると断言。そのうえで三条ら「即今破約攘夷派」排除のために守護職である容保及び会津松平家の協力を得たい、万が一会津松平家の協力が得られずとも薩摩島津家のみで「即今破約攘夷派」の排除を行うつもりであると、高崎は秋月に述べたといいます。秋月は即座に容保に諮り高崎からの申し出を受け入れました。高崎は、当時「攘夷実行」に慎重であった中川宮朝彦親王に「會津松平家―薩摩島津家」の盟約が成ったことを告げ尽力を要請。八月十五日までには会津松平家―薩摩島津家(の在京勢力)―中川宮の間で最終的合意が成立していたようです。しかし孝明天皇も慎重な姿勢を崩さず、当初八月十六日に予定されていた「計画」は延期されてしまいました。同日、中川宮が孝明天皇の「叡慮」を伺うと武力を用いた三条らの「排除」には賛意を示してはいたものの、孝明天皇はまだ心のなかで葛藤を繰り返していたのです。八月十七日、勅諚が下り、三条実美らの参内禁止・大和行幸延期・長州毛利家の堺町門警備解任などが決定されました。文久三年八月十八日、子の刻(午前一時頃)、中川宮、武装した淀・会津兵、呼応した薩摩兵が九門を警備し、前関白近衛忠煕が参内。虎の刻(午後四時頃)には御所の警備が整いました。長州毛利家はこの状況に抵抗を示しましたが三条実美らとともに長州へ落ち延びて行くのでした。(七卿落ち)これが文久三年八月十八日「政変」の概要です。この政変の主役たる容保は文久三年十月孝明天皇から「暴論をつらね不正の処置増長につき、痛心に堪えがたく、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患を払ってくれ、朕の存念を貫徹の段、全くそのほうの忠誠にて、深く感悦の余り、右一箱、これを遣わすものなり」との御宸翰とともに、和(やわ)らくも たけき心も相生(あいおい)のまつの落葉のあらす栄えむ/もののふと 心あわしていわおをもつらぬきてまし 世々のおもいて という御歌を賜りました。なお覚馬が上京してくるのは「政変後」の元治元(一八六四)年二月のこと。したがって高崎と秋月の面談の時にはまだ京都には来ていないはずです。 伊藤悌次郎や高木時尾の弟・高木盛之助が出てくるのはいいですね。時尾が照姫の右筆に選ばれたのはいつ頃のことでしょうか。「病弱」な容保の表現がうまいと思います。

参考文献:家近良樹氏『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、一九九五年。)
桐野作人氏「八・一八の政変」(『幕末大全 上』 学研、二〇〇四年)
町田明広氏『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ、二〇〇九年。)