家近 良樹氏『人物叢書 徳川慶喜』

評者は家近良樹氏(以下 著者)の書籍が好きだ。『幕末維新の個性1 徳川慶喜』など大学時代に夢中になって読んだことを昨日のことのように覚えている。本書『人物叢書 徳川慶喜』は著者にとって上記の『幕末維新の個性1 徳川慶喜』(吉川弘文館、二〇〇四年。)、『その後の慶喜』(講談社選書メチエ、二〇〇五年。)、に続く三冊目の徳川慶喜論である。

著者は「血統」から慶喜を語り始める。すなわち父・斉昭から受け継いだ、(水戸学に象徴される)「尊王家」たる水戸徳川家と、母・吉子女王から受け継いだ、(さかのぼれば霊元天皇にまでたどり着く)有栖川家の血筋、この朝幕双方の「血」を受け継いだことが慶喜の行動や生涯を後々まで規定したのだという。慶喜は弘化四(一八四七)年、十一歳の時、将軍家の一門である「一橋家」を相続し、「将軍継嗣問題」で十四代将軍候補に推されて以来、当人の好むと好まざるとに関わらず政局の渦に巻き込まれてゆく。安政の大獄で隠居した慶喜が「政治家」として復帰を果たすのは文久二(一八六二)年、二十六歳のことであった。慶喜は政界復帰後、京都で将軍後見職や、禁裏御守衛総督として政局にあたることになるのだが、著者は京都での慶喜の政治活動(特に禁裏御守衛総督就任)に関して(軍事力を持たない一橋家の当主である慶喜が)朝廷との結びつきを強め、自らの政治基盤を朝廷に置き、徳川家の人間でありながら「朝臣化」の度合いを強めたと評価している。このように禁裏御守衛総督であった慶喜禁門の変前後に会津松平容保・桑名の松平定敬とともに「一会桑」なるグループを形成し政局の運営にあたることになる。しかし第二次長州戦争時における家茂死後の慶喜出陣の対応(慶喜が出陣を明言していたのに自らそれを反故にした)をめぐって対立し、一会桑は分裂。ここには柔軟に時勢の変化に対応しようとする慶喜とあくまで幕府を念頭に置いている容保の差異がみてとれると著者は指摘する。このように京都での政治家経験豊富な慶喜が将軍に就任(いわゆる「慶喜政権」が誕生)したのが慶応二(一八六六)年十二月であった。「慶喜政権」の特色としては慶喜自らが「動きを起こす」ざっくばらんな将軍であったにもかかわらず、幕臣外様大名からの人気が得られず朝廷勢力を基盤とせざるを得ない政権であったということである。孤立した将軍であったともいえるかもしれないがだからこそ小松帯刀後藤象二郎を巻き込んで―まるで芝居のように「大政奉還」を行えたに違いない。大政奉還後の慶喜の評価の高まりから新政権内部での議定の職が保障されるはずであったことも忘れてはなるまい。新政権へのスムーズな移行のために王政復古の際会津を押しとどめたのも慶喜その人だったのである。朝廷への崇拝の念により鳥羽伏見戦争では失態を演じるが、そんな局面を乗り越えた慶喜であったが故に明治期(特に十年代)は幸せであったのだろう。

また著者は「強情」で民衆や部下に対する配慮を欠いた、「醒めた眼」を持った慶喜のマイナス面も丁寧に描き出しているがそれでもどこか著者の慶喜への想いが感じ取れるのは評者だけであろうか。グレングールドのピアノの調べのような「試み」は見事に成功しているといえよう。