書評 佐野真由子氏『幕末外交儀礼の研究』

 幕末期の日本は日米和親条約日米修好通商条約の2つの条約を締結したことによって、「西欧」へと投げ出された。
和親条約の第11条の規定によりタウンゼンド・ハリスがアメリカ総領事として下田に着任したのは安政3(1856)年7月21日のことであった。
佐野 真由子氏『幕末外交儀礼の研究』は、そのハリス着任後の翌安政4(1857)年10月21日の将軍家定への拝謁に始まり、慶応3(1867)年3月25日から4月1日に行われた、英仏米蘭4か国代表と将軍慶喜の拝謁に終わる幕末外交を「外交儀礼」の視角から分析している。

一般に安政5(1858)年6月19日に締結された日米修好通商条約は、幕府(公儀)がアメリカとの間に結ばされた「不平等条約」であるという評価がなされることがあるが、現在ではそのような評価も含め、幕府外交の見直しが進められている。そして本書でも、随所に幕臣の外交儀礼交渉における奮闘ぶりが滲み出ている。
本書のテーマである「外交儀礼」とは、本来、「外交官の日常規範をも含んだ全ての事柄」と定義することができるが、本書では、武家儀礼や将軍拝謁式などといった、より広い意味の「儀礼」に着目し、幕末外交史の研究に新たな視点を提示している。
本書は、2部6章で構成されている。

第1章は、儀礼研究の前提として、幕府における儀礼である「殿中儀礼」を概観し、江戸城内での儀礼における服装や殿席、さらに対外使節を迎えた儀礼の例として「朝鮮通信使」を取り上げる。慶長12(1607)年から文化8(1811)年までの計12回に渡る朝鮮通信使との交流が幕末に幕府がハリスに対応するための経験的蓄積となった、と指摘している。また、幕臣筒井政憲を取り上げ、ハリスの将軍拝謁式に至るまでの、いわば準備期間を描いている。

第2章では、欧米諸国の「外交官」が儀礼に際し、如何なるマナーや認識を以て望むのか、あるいは望むべきなのかということをアーネスト・サトウの著作から探り、あわせて、西欧諸国の外交官が、主として東アジア諸国の外交儀礼にどのように臨んだのかということを中国やタイの例を用い、記している。

第3章は、前章までを受けて、安政4年10月21日に行われたハリスの将軍拝謁式と、それが挙行されるまでの経緯が詳細に述べられている。本章では、幕府が朝鮮通信使や殿中儀礼での経験蓄積を参照しながら、柔軟にハリスの将軍拝謁式に対応していった、ということが指摘されている。幕府側にとって、将軍拝謁式の準備や挙行、そしてその先に生まれてくるであろう諸外国との交際や交流は、(十分に想定しえたことで)「未曾有」の事態にはなり得なかったのである。無論、以前の朝鮮通信使とハリスの例を比較して、如何なる位置づけでハリスの使節を迎えるのかということについては、様々な意見が交わされた。そして、無事に挙行された将軍拝謁式を、ハリスは「西洋の作法」で執り行われた儀礼であると評価した。著者はハリスの将軍拝謁式を「西洋国際社会を視野に入れ、信任状捧呈式を含む国際法に基づいて展開されていく近代の外交に連結された場面」である、と述べている。

第4章では、ハリスの将軍拝謁式以降の外交儀礼史上試行錯誤とでもいえる時期を、安政5年4月1日のドンケル=クルティウス、同年7月12日のプチャーチン、そして10月11日のハリスによる再びの将軍拝謁を通し、描いている。特にオランダ商館長から、領事官へと就任したドンケル=クルティウスは、ペリー来航の情報を日本にもたらしたことでも著名である。ドンケル=クルティウスを分析することは、幕末期の外交儀礼を考察する上でも非常に興味深い。また、アメリカ公使となった、ハリスの将軍再拝謁の際には、ハリスの立ち位置などに関わる、いわば儀礼の「簡略化」といった問題があり、ハリスと幕臣の間で議論が行われた。安政5年頃までの、この一連の儀礼や将軍拝謁式をめぐる動きは、幕臣に日常業務としての「外交儀礼」を意識させ、外交儀礼を平穏無事に挙行させるための「規範」づくりが行われていったのである。それは、「永世不易の禮典」という言葉に表されている。筆者は、当該期のドンケル=クルティウスやプチャーチン、ハリスの将軍拝謁式およびそれに関わる外交儀礼を「持続可能な外交」への萌芽であると評価している。

第5章は、万延元(1860)年7月4日のハリスの3度目の将軍拝謁から、文久2(1862)年閏8月9日のゴシケーヴィチの将軍拝謁までを扱い、外交儀礼の「安定期」について述べている。もっとも、これは外交儀礼や、将軍拝謁の側面からみて、「安定」したといえるのであり、この後の文久3(1863)年に朝廷に迫られ、幕府が(表向き)攘夷を標榜したことで政局が混乱していったのは、周知の通りである。そのため閏8月9日のゴシケーヴィチの将軍拝謁の後、外交官側から将軍拝謁に対するいくつかの要請があったものの、幕府の外交儀礼は「空白期」を迎えた。また、文久3年の上洛以来、数度の上洛を経て、家茂の拠点が大坂城へ移ったこともこの時期の特徴であるといえるだろう。このような状況下で将軍拝謁が中断されたのはむしろ自然なことであった。著者はこの時期を安政4年から続く、「儀礼様式の成立期」であると評価している。

最終章である第6章は、慶応3年3月25日から4月1日にかけ、大坂城で行われたパークス、ポルスブルック、ロッシュ、ヴァルケンバーグの4名に対し、個別に行われた慶喜への拝謁について詳細に検討している。そして、今回の将軍拝謁が幕末最後の外交儀礼の事例となった。前回の将軍拝謁から4年半の空白が存在したにも関わらず、今回の事例は、幕臣たちがそれまで蓄積してきた外交儀礼の「先例」に則り、基本的枠組みとして適用しようとしたということを明らかにしている。また、今回の将軍拝謁では新たな試みとして「内拝謁」、つまり初めての晩餐会が行われた。このフランス料理のフルコースを用いた豪華な晩餐会は、従来言われてきたようなフランス側のロビー活動がきっかけでなされたものではなく、幕臣側の発想から生まれたものであるということもこの晩餐会を考えるうえで重要な指摘であろう。

ちなみにこの時の晩餐会のメニューも収録されている。慶喜や、パークスたちがどのような料理を食したのか、想像するのも1つの楽しみ方かもしれない。

慶喜の将軍拝謁に外交官のミットフォードが詳細な助言を行っていたこともその大きな特徴であるといえるだろう。結果として、慶喜による将軍拝謁は、サトウに「全くヨーロッパの流儀」で行われたと驚嘆させ、また、慶喜は「外国人に対して友好的な気質」であり、「環境の変化に適応する力」がある将軍であると、パークスたちに強烈に印象づけ、魅了したのである。皮肉なことにその約半年後には幕府は瓦解することになるのだが―。幕末の「外交儀礼」はここに頂点を迎えたといってよいであろう。そして幕末期に行われた外交儀礼は維新政権へと引き継がれてゆく。

以上、内容の一部を紹介した。評者の誤読もあるかもしれないが、間違いなく、本書は幕末外交儀礼研究に一石を投じている。味読したい1冊である。