びっくりぽんな幕末維新史~広岡浅子

 「あさが来た」が最終回を迎えました。そこで「あさ」こと、広岡浅子の経歴を振り返りたいと思います。浅子は京都油小路出水の小石川三井家6代当主である三井高益の4女として嘉永2(1849)年に生まれました(西園寺公望が同年の生まれです)。三井高益が50歳を過ぎてから生まれた子で、「別腹」、いわゆる「妾の子」でした。浅子の回想録である『一週一信』によると、幼い頃の彼女は裁縫・生け花・茶の湯・琴などを習わされましたが、あまり性に合わなかったようです。浅子はそのような芸事よりも、当時、「女性には不要」とされていた学問に強い関心を持っていたそうです。そのような浅子を家族は心配し、13歳の時、浅子は読書を禁じられてしまいます。浅子は、その状況を打ち破ろうと奮起したようです。この頃の心情を『一週一信』で「女子といえども人間である。学問の必要がないという道理はない、かつ学べば必ず習得せらるる頭脳があるのであるからどうかして学びたいものだ」と述べています。「あさが来た」でも、お転婆で、学問好きな性格が、丁寧に描かれていました。さらに、浅子は2歳という物心もつかないうちから許嫁として広岡家に嫁ぐことが決められていました。浅子は、自らの意思に関わりに無く広岡家に「嫁いだ」ということに関して「何という不当なことであろう」と「慨嘆」した、と後に『一週一信』のなかで述べています。浅子が白岡「新次郎」こと、9歳年上の広岡信五郎の妻となったのは慶応元(1865)年、17歳の時でした。「あさが来た」では大らかで、あさを優しく見守る新次郎ですが、実際の信五郎について、「少しも自家の業務には関与せず、万事支配人任せで、自らは日毎、謡曲茶の湯等の遊興に耽っている」とその第一印象を述べてはいますが、やはり後年の浅子の活躍を考えると信五郎は魅力溢れる最大の理解者であったような気がしてなりません。慶応4(1868)年、20歳の浅子は維新を契機に実業界に飛び込みます。明治9(1876)年、28歳の時には娘の「千代」こと、亀子をもうけます。それから10年後の明治19(1886)年、38歳の時には、筑豊の潤野炭鉱の経営に乗り出し、「多くの荒くれた鉱夫どもを相手に生活し」、また明治21(1888)年、40歳の時には、加島屋を母体とした加島銀行を経営し「利に鋭き男子らを指揮して算盤場裡に没頭した」と『一週一信』にあります。浅子が48歳を迎えた、明治29(1896)年には、「成澤泉」こと、成瀬仁蔵の思想に共鳴し、「日の出女子大学校」こと、日本女子大学校の発起人として名を連ねます。明治33(1900)年には、目白台の三井家別荘に日本女子大学校が設立されました。浅子が52歳の時のことです。浅子54歳の明治35(1902)年には大同生命保険会社を設立します。浅子56歳の明治37(1904)年には夫の信五郎が亡くなります。享年64.信五郎の死因についてはよくわかっていないようです。ほどなくして浅子は実業界を引退します。61歳を迎えた、明治42(1909)年、浅子は乳がんを患い、東京帝国大学付属病院で手術を受け一命をとりとめます。明治44(1911)年63歳の時には大阪教会でキリスト教に入信しています。大正7(1918)年には、回想録である『一週一信』を出版し、翌大正8(1919)年1月14日東京麻布の別邸で亡くなりました。70歳でした。
浅子の生涯を親交の深かった渋沢栄一大隈重信と比較してみると面白いかもしれません。
「あさが来た」はとても爽やかで、柔らかい物語であったと思います。