【エッセイ 徳川家茂】

今回は番外編として第14代将軍・徳川家茂について述べたい。幕末期の将軍というと、徳川慶喜の名を思い浮かべることが多いかもしれない。しかし慶喜が「征夷大将軍」であったのは慶応2(1866)年12月から慶応3(1867)年10月のわずか1年弱というごく短い期間である。したがって安政の大獄桜田門外の変、また薩長盟約(同盟)そして長州戦争など幕末期の重要事件のほとんどは、家茂政権下に起こったことだったのである。以下、家茂の履歴を振り返ってみよう。家茂は、弘化3(1846)年閏5月24日に紀州徳川家第11代当主である斉順(なりゆき)の嫡男(次男ともされる)として赤坂にある紀州江戸屋敷で生まれた。前将軍・家定の養子になるまでの名を慶福といった。嘉永2(1849)年閏4月2日に第12代当主である斉彊(なりかつ)の跡を継ぎ第13代紀州徳川家当主となり、嘉永4(1851)年10月9日にわずか6歳で元服した。慶福は第11代将軍・徳川家斉の孫で第13代将軍・家定とは従兄弟という間柄から、徳川将軍家の「血統」を継ぐ者として申し分のない人物であった。また慶福は幼いながら動物を愛する心優しき性格であった。その後、彦根井伊家の当主である直弼らから次期将軍に推されたのはよく知られるところである。安政5(1858)年11月21日には名を家茂に改名した。家茂は直弼に絶大な信頼を寄せており、8代将軍・吉宗の鞍や家定から賜った小刀を与えている。桜田門外の変で直弼が斃れた際にはあまりの衝撃に食事が喉を通らなかったという。家茂は大変に家臣思いであった。ある時、家茂は所の教授をしていた老齢の家臣である戸川安清に硯の墨を頭の上からかけ、「あとは明日にしよう」と述べ出て行った。当の戸川は泣いている。周りの者は家茂の行為を不審に思い、戸川に問うと「自分は老齢のため、思わず失禁をしてしまった。上様の前で粗相をしたとなれば厳罰は免れない、それを隠すためにわざと墨をかけるふるまいをしたのだ」と、戸川はまた家茂の温かさに泣いたという。安政5年に13歳で将軍になった家茂はその後幕末の難局に自分の身をすり減らすかのように立ち向かってゆく。文久2(1862)年には紆余曲折を経て孝明天皇の妹である和宮と結婚した。2人は大変仲睦まじいことで知られ、家茂が御所を離れて寂しさを感じているであろう和宮に金魚をみせて喜ばせるなどの逸話はその一端を表していよう。文久3(1863)年、家茂は孝明天皇に「攘夷」を誓うため、229年ぶりに上洛した。この「攘夷」という言葉は良くも悪くも幕末の政局を動かす1つであった。元治元(1864)年にはいわゆる禁門の変と呼ばれる「戦争」(元治甲子戦争)が起こる。そして勢いづいた長州毛利家は公儀と緊張状態に陥いり戦端が開かれる(「長州戦争」)。慶応2(1866)年2度目の「長州戦争」の陣頭指揮を行っていた家茂は、7月20日脚気衝心のため大坂城内で死去した。21歳の若さであった。なお死後の調査によると家茂の歯はたった1本を除いて全て虫歯であったという。家茂は大の甘い物好きであり、政務や戦闘の合間にストレス解消がてら菓子を食べていた、ということであるらしい。この家茂の歯の逸話に激動期に若くして亡くなった将軍のせつなさを観る思いがする。勝海舟は、後年、家茂の思い出を語るたびに涙を流したという。この逸話こそ何よりも家茂の人柄を物語ってはいないだろうか。