びっくりぽんな幕末維新史~渋沢栄一

「あさが来た」を観た。明治20(1887)年頃だろうか。「銀行の神様」こと渋沢栄一が登場。渋沢は天保11(1840)年生まれなので数え年で五代より6歳年下である(!)渋沢は、2月13日、武蔵野国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県藤沢市)の養蚕や製藍を営む家に生まれた。若き頃の渋沢は、家業の藍の売買に精を出していたが、22歳になった文久元(1861)年には、江戸に出て海保章之助に儒学を、北辰一刀流・千葉栄治郎に剣を学んだ。翌文久3(1863)年には、「攘夷」を実行しようと横浜の異人館焼き討ちを計画するが、従兄弟の尾高長七郎の説得を受け中止した。もっとも渋沢が本気で異人館を焼き討ちしようとしたのか怪しいところである。しかし、青年期の渋沢にも志士的側面があったことは興味深い。その後、京都に出て一橋家の用人であった平岡円四郎や川村恵十郎らの知遇を得、翌元治元(1864)年からは一橋家に出仕し、徳川慶喜に仕えることとなった。慶応2(1866)年には一橋家の歩兵取立御用掛として一橋家領内の農兵の募集を行い、一橋家の兵力強化に尽力した。慶応3(1867)年になると、紱川慶喜の弟である昭武(あきたけ)のパリ万国博覧会参加に伴い昭武に随行し、その側近として昭武の身辺警護を行いながらヨーロッパを見聞した。同年10月の権返上により、幕府が崩壊したため、明治元(1868)年11月3日には日本に帰国した。明治2(1869)年からは新政府に出仕。明治4(1871)年には大蔵権大丞として新貨条例や国立銀行条例の起草に関わった。明治6(1873)年に官を退いた後は民間にあって第一国立銀行のほか、500以上の企業の発展に寄与したことは良く知られている。明治33年(1900)61歳の時には男爵となった。大正期には福祉や女子教育などの支援を行った。明治30年代からはかつての主君である慶喜の名誉回復のため慶喜の伝記編纂(『徳川慶喜公伝』)に情熱を傾けた。なお、渋沢自身が若き日の自らを回想した、岩波文庫『雨夜譚(あまよがたり)』は渋沢の性格や想いが垣間見え興味深い。渋沢は昭和6(1931)年11月11日、92歳で没した。渋沢の多岐に渡る活動の根底には、幕臣であったという強い誇りと自負があったのではないだろうか。48歳の渋沢は「あさ」との出会いに何を語るのだろう。