【びっくりぽんな幕末維新史 〜 五代友厚】


 ドラマ「あさが来た」で主人公・白岡あさの人生に強い影響を与えた五代友厚が亡くなりました。いうまでもなく、この五代は幕末明治を生きた実在の人物です。個人的には五代とあさの最期の交流や想いを丁寧に描いたとても感動的な回であったと思います。「五代ロス」になる前に改めてその足跡を追ってみたいと思います。

五代は天保6(1835)年12月26日薩摩藩に生まれました。大河ドラマで有名になった天璋院篤姫小松帯刀、土佐の坂本龍馬と同年代です。五代は13歳の時、正確な世界地図を模写し藩主・島津斉彬に献上するなど、向学心溢れる少年だったようです。五代は安政4年(1857)19歳の時、郡方書役という役職に就き、その後長崎海軍伝習所への遊学を命じられます。

五代は、この長崎海軍伝習所オランダ語や航海術など最先端の文化や技術に触れ、やがて世界へと眼を向けます。

長崎の遊学を経た五代は、薩摩本国に徴用され、文久2年(1862)28歳の時には、船奉行添役に就任します。同年、幕府艦・千歳丸の水夫として上海に密航し薩摩のために軍艦購入の契約を交わしています。この上海密航で五代は長州の高杉晋作とも交友を温めています。劇中、あさと五代が大坂で初めて出会ったのは、この密航前のことでしょう。

文久3年(1863)には薩摩とイギリスとの間に起こった薩英戦争において後の外務卿・寺島宗則とともに自ら進んでイギリスの捕虜となります。イギリスへの情報収集も含めてのことかもしれませんが、この辺りのエピソードは五代の豪胆さを感じさせます。

その後、慶応元年(1865)五代は31歳の時、長崎のグラバーの配慮で薩摩の留学生を引き連れ、自らもヨーロッパを見聞して周ります。これには、薩摩の家老・小松帯刀の意向が働いていたといわれています。最近、長州の海外留学生を指して「長州ファイブ」という言葉が流行りましたが、対して五代が引き連れた留学生たちは、「薩摩スチューデント」と呼ばれています。薩摩スチューデントと長州ファイブはロンドンで交流をしたというエピソードが残されています。

五代は慶応2年(1866)に国内でも目覚ましい活躍をみせます。慶応3年には坂本龍馬海援隊紀州徳川家に起こった海難事故である「いろは丸事件」を土佐の後藤象二郎とともに海援隊に有利な形で解決に導いています。

慶応4年(1868)には新政府の外国事務掛に就任し諸外国との事件の解決に尽力しています。五代はこの年の2月に初めて大坂を訪れています。明治2年(1869)には政府の職を辞し大坂の発展に力を注ぎます。

余談ですが明治3年(1870)には、大坂の経営にもかかわっていた小松帯刀が亡くなります。小松の最期を看取り、その遺児の面倒をみたのは、五代でした。五代にとって小松は自分を引き立ててくれた恩人のような存在だったのでしょう。

以後、五代は大阪商工取引所や大阪商船の設立など亡くなるまで大坂の発展・繁栄に力を尽くしました。五代友厚明治18年(1885)年9月26日東京で亡くなりました。49歳でした。
五代の死後「あさ」がどのように実業家として成長してゆくのか楽しみです。