「花燃ゆ」についてのつぶやき 第18話〜第27話 まとめ

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政7年(1860)2月頃〜文久2年(1862) 1月頃。久坂玄瑞 21歳〜23歳。小田村伊之助 32歳〜34歳。
安政7年(1860)3月3日、井伊直弼が薩摩人を含む水戸系浪士18名に殺害されました。いわゆる桜田門外の変です。井伊直弼 享年46。
文久元年3月頃から毛利家では直目付長井雅楽を中心として航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)が国是として模索され始めます。長井が提唱した航海遠略策とは一言でいえば海外雄飛論であり、公儀の改革を前提として朝廷改革、挙国一致政策だったのです。
長井は文久元年4月29日頃からこの航海遠略策を以って江戸や京都での周旋活動に乗り出ます。航海遠略策は久坂らによって批判をうけるのですがその背景には久坂たちに松陰の江戸送りを申し渡したのが長井であったということも関わりがあるのかもしれません。小田村はこの2年間で側儒者となり毛利家当主慶親の上京に付き従っています。
文久2年1月14日、久坂のもとに武市半平太(瑞山)の書状を携えた坂本龍馬が現れます。翌日、久坂は龍馬・佐世八十郎・寺島忠三郎とともに国事を談じ藁束斬りを行ったといいます。1月23日龍馬は久坂の返信を持って萩を発ちます。龍馬と文は出会ったのでしょうか?

久坂の瑞山宛の返信には、「坂本君御出浮在らせられ腹蔵無く御談合仕り候頃、委曲御聞取り願い奉り候。竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外には迚も策之無き事と私共同志中申し合い居り候事に御座候。失敬乍ら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず。両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、万乗の君の御叡慮相貫き申さず而は神州に衣食する甲斐は之無きかと、友人共申し居り候事に御座候。(中略)」とありました。(文久2年1月21日状)

この10日ほどの滞在が龍馬に心境の変化をもたらしたのでしょうか。

文久2年 3月24日 龍馬は「国抜=脱藩」をするのです。坂本龍馬 時に28歳。

まさに「坂龍飛騰(ばんりょうひとう)」の季節でした。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。文久2年(1862) 1月頃〜4月頃でしょうか。久坂玄瑞23歳。高杉晋作24歳。久坂は2月頃より土佐の吉村虎太郎と交流し、国事を論じています。この年の1月15日には、老中・安藤信正が坂下門外に襲われるものの一命は取り留めるという事件がありました。また、2月11日には徳川家茂和宮の婚儀が行われます。このように国内の政治は徐々に変化を迎えていたのです。そのような情勢下の1月、高杉は徳川家公募の留学生(毛利家代表)として上海行きを命じられ、1月3日長崎へと向かっています。長崎滞在から3ヶ月ばかりのちの4月29日、高杉は幕艦千歳丸で上海に向かいました。留学生のなかには薩摩の五代友厚も参加していました。同じく4月頃、松浦亀太郎長井雅楽の殺害を試みますが、仲間に思いとどまるよう説得され、文久2年4月13日粟田山にて自刃します。享年26.ドラマの描写とは最期が異なるようです。ちなみに4月16日 島津久光が率兵上京し、4月23日には薩摩の同士討ちともいえる「寺田屋事件」が起きています。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。文久2年(1862)4月頃〜12月でしょうか。久坂玄瑞23歳。高杉晋作24歳。寺田屋事件(4月23日)の直後の4月25日 一橋慶喜・越前の松平春嶽 尾張徳川慶勝ら いわゆる一橋派の謹慎が解除され、彼らの復権がなされます。それから4日後の4月29日、毛利家の世子(跡継ぎ)定広が「天気伺い」(天皇の様子を伺う)と称して入京します。翌30日には朝廷から定広に浪士鎮撫の詔勅が降りました。5月6日 高杉が上海に到着します。5月22日 薩摩の「国父」・島津久光が勅使・大原重徳につき従い、兵を率いて江戸に下ります。6月5日 毛利敬親長井雅楽を免職にし帰国謹慎を命じます。6月10日 勅使 大原重徳が江戸に入り、「将軍が上洛し国事を議する」 「薩摩 長州 土佐 加賀 仙台の五藩を五大老に任ずる」 「一橋慶喜将軍後見職松平春嶽大老に任じる」ことを定めた勅旨、いわゆる「三事策」を伝達します。

これを受けて7月6日 一橋慶喜将軍後見職に、7月9日には松平春嶽政事総裁職に任じられます。同日、毛利家は国是を通商条約を認めたうえで「異国」との関係を保つとした「航海遠略策」から、通商条約を破棄し、改めて諸大名・朝廷の総意で条約を締結し直すべきであるとする「破約攘夷」へと転換しました。高杉は7月14日に長崎着。7月20日萩へたどり着きます。8月21日には生麦事件が起こります。閏8月1日には松平容保京都守護職に任命されました。9月8日には江戸へ攘夷実行の催促のための勅使派遣が決定され、10月27日には勅使三条実美が江戸に到着しました。久坂などはこの頃盛んに攘夷を唱えていたようです。そして12月12日英国公使館焼き討ちが計画されるのです。この時期は島津と毛利の力が拮抗した時期といえるのではないでしょうか。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。テロップでは文久3年(1863)1月〜となっていましたが時間軸は文久2年(1862)12月頃〜文久3年(1863)5月が良いでしょう。久坂玄瑞23〜24歳。高杉晋作24〜25歳。文久2年12月12日夜英国公使館の焼き討ちが行われました。正確にいえば品川御殿山の英国公使館建設予定地が高杉や久坂の他、伊藤利助、赤根武人、志道聞多(井上薫)、山尾庸三らによって襲撃されました。どうやら「長州人(が)一人くらいはと夷人なりと斬っ」てみせねばという意気込みであったようです。高杉1人はこの行動に反対であったようですが…。建設予定地であったので人的被害は出ませんでしたが公使館建設は中止になりました。久坂はこの後(12月17日)、水戸で国事を論じ、12月27日には信州上田に入り佐久間象山のもとで年末を過ごしています。翌文久3(1863)年1月5日、将軍後見職徳川慶喜が3月に予定された将軍上洛の先触れとして上洛。2月6日には「航海遠略策」を推進した長井雅楽切腹します。2月11日、久坂や寺島忠三郎が関白・鷹司政通のもとを訪ね、攘夷の決定を促しています。3月4日 徳川家茂が上洛してきます。3月7日 家茂が御所に参内、8年から10年以内の攘夷を約束します。3月11日 孝明天皇は家茂や諸大名を率い、賀茂社に攘夷決行を祈願。3月15日 毛利家から高杉へ10年の暇が許されます。これにより高杉は「東行」と号しました。ところが4月20日になって攘夷決行日が5月10日に決定されてしまいました。4月21日 朝廷と公儀より諸大名家へ「攘夷決行」の旨が通達されます。5月9日、老中格小笠原長行生麦事件の賠償金を支払っています。文久3年5月10日、久坂率いる光明寺党(前年11月頃結成。)は下関でアメリカ商船ベンブローグを砲撃。…しかし攘夷を行ったのは久坂たちだけでした。

文が自由に動いてますねえ。毛利敬親と文は言葉を交わせるものなのでしょうか…。僕にはわかりません。歴史的背景をカットしているものだからストーリーが唐突過ぎる気がします。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。文久3年(1863)5月〜6月頃。久坂玄瑞23〜24歳。高杉晋作24〜25歳。文久3年5月10日のアメリカ商船ベンブローグ砲撃以来、長州毛利家の過激派は5月24日にフランス軍艦キャンシャン号を、5月26日にはオランダ軍艦メデューサ号を次々と砲撃しますが6月1日にはアメリカ軍艦・ワイオミング号から、6月5日にはフランスのセラミス号から報復され毛利家の軍備は打撃を受けます。
その一方で5月12日には伊藤俊輔井上聞多ら、いわゆる「長州ファイブ」が横浜からロンドンに向けて旅立ちました。攘夷を掲げながらの密航とは不思議な気がしますが「攘夷してのち国開く」という周布政之助ら毛利家首脳部の主張からすれば何ら矛盾することではなかったのかもしれません。
久坂は5月27日に京都に異国船砲撃を報じ、6月1日には京都に入っています。
高杉は依然として「隠遁」していましたが、6月4日に毛利家政府から呼び出しを受け、6月6日「若殿様御前詰」として下関「出張」を命じられました。そして同日夜には下関の問屋白石正一郎邸に着。文久3年6月7日白石邸において光明寺党や有志の者を中心にして「奇兵隊」を結成したのです。高杉が毛利慶親の前で奇兵隊の結成の宣言した時、久坂も同席したのでしょうか。

文さんが「女台場」にどこまで関わっているのかよくわかりませんでした。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。文久3年(1863)6月〜8月頃でしょうか。久坂玄瑞23〜24歳。高杉晋作24〜25歳。文久3年5月9日(攘夷決行の前日)に「生麦事件」の賠償金を支払わされたことによって将軍家茂は鬱になり6月13日には江戸へと戻ってしまいます。6月16日には桂小五郎が久留米の神官・真木和泉らとともに(孝明天皇に「攘夷」を行わせるための)「攘夷親征」を計画します。6月27日、前年の「生麦事件」のためイギリス艦隊が鹿児島湾にはいります。7月2日になってイギリス側が鹿児島の砲台を攻撃し打撃を与え、翌3日には鹿児島湾を去っていきました。世にいう「薩英戦争」ですが、薩摩とイギリスそれぞれの思惑があるようで興味深いです。7月11日、毛利敬親から「攘夷親征」の建白書が朝廷に提出されます。8月13日朝廷から攘夷親征(孝明天皇が主体者となって攘夷を行う)を目的とした「大和行幸の詔」が降されます。簡単に言えば攘夷を渋る幕府への、天皇行幸を使った圧力でした。しかし諸大名の眼にはさすがに「攘夷親征」は無謀に映ったようです。大和行幸の詔が降る2日前の8月11日、攘夷親征を計画した毛利家過激派に危機感を抱いた会津松平家と薩摩島津家の在京勢力は中川宮と語らい大和行幸の中止や三条実美ら長州毛利家寄り公家の参内中止・長州の堺町門警備の罷免などを画策しました。文久3年8月18日、会津・淀・薩摩の在京勢力が御所の警備につき長州毛利家はそれまでの堺町御門の警備を罷免されました。それは毛利家が京都政局での居場所を失ったことにほかなりませんでした。毛利家からすればまさに孤立であり政変でした。世にいう8月18日の政変(文久政変)です。翌日、三条実美ら七卿は三田尻へ落ち延びてゆくのです。敏三郎は奇兵隊に入隊したのでしょうか。高杉晋作奇兵隊総督を離れたのは奇兵隊士が起こしたいざこざである「教法寺事件」の責任をとってのことではないでしょうか。文久期に徳川家との強いパイプを築いていた吉田稔麿を丁寧に描いて欲しいものです。辰路と久坂の恋路も良いのですがもっと政治情勢を丹念に描いて良いはずです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。文久3年(1863)8月〜元治元年(1864)初頭頃でしょうか。久坂玄瑞24〜25歳。高杉晋作25〜26歳。文久3年8月18日の文久政変の翌日である8月19日、三条実美をふくめた七卿が毛利家領である三田尻へくだってきます。そして文久政変の報せが山口にもたらされたのは8月23日のことでした。8月29日、毛利家のなかでも徳川寄り(保守派)である、「俗論党」が萩から山口に入り革新派である「正義党」の周布政之助ら3名の免職を毛利敬親に要請。9月1日周布らは免職されますが俗論派がその直後に山口を離れたため事態はすぐに動き、10月10日より周布は再び毛利家の中枢で活動します。これにより正式に三条ら七卿は毛利家で受け入れられます。また、七卿たち自身は軍事力を以て「除奸」(反対派を除く≒現状の打開)を考えていたようです。三条たちの過激な攘夷はあくまで孝明天皇の意思に則って行われたものだとする自負があったのでしょう。10月には公儀(幕府)より京都近くの大名へ毛利家家臣の入京を強く取り締まるべしとする通達がなされました。10月2日、七卿の1人である澤宣嘉が奇兵隊総督の河上弥一とともに生野の変に加わります(同日 赤根武人が奇兵隊総督に就任しています)。生野組敗走により13日沢は落ち延びますが河上は14日に戦死します。「攘夷実行」以来、それを詰問に来た公儀役人を長州人が殺害した「朝陽丸事件」や、同事件を懸命に収拾しようとした吉田稔麿の活動など記憶に留めておいても良いでしょう。この時期になると公儀と毛利家の関係は微妙に変わりつつありました。久坂が小田村久米次郎を養子にしたのはこの年の5月のようです。沖田総司と久坂・高杉・入江九一・稔麿は対峙したのでしょうか?
「花燃ゆ」についてのつぶやき。元治元年(1864)初頭〜6月頃。久坂玄瑞25歳。高杉晋作26歳。文久3年12月から京都では一橋慶喜松平容保島津久光松平春嶽山内容堂伊達宗城ら朝廷に任命されたいわゆる国事参与(大名に準ずる人々)による参与会議が開かれ、横浜鎖港と長州処分について論じられますが薩摩の勅書への関与を察知した慶喜が薩摩への警戒を強め、3月9日には慶喜が参与を辞任し参与会議は空中分解しました。
一方、文久政変で京都政局から放り出された感のある毛利家は京都での地位を取り戻そうと毛利家の一部では京へ上るべしとする「進発論」が盛んになりました。毛利家で結成された諸隊の1つである遊撃隊の来島又兵衛などは強く進発を訴えました。過激な人物として描かれることの多い来島ですが吉田松陰は来島の人柄に一目置いていたようです。
 1月23日、進発に反対していた高杉に毛利定広は来島の説得を命じます。24日に高杉は来島に面会し説得を試みますが27日には失敗しそのまま大坂へ向かいました。3月19日には長州に戻りますが勝手に任務を放棄したということで3月29日から野山獄に投ぜられます。この際高杉は、「先生を慕うてようやく野山獄」と詠んでいます。
このような雰囲気を受けて5月21日頃毛利家の進発が決定しました。
毛利家の進発論で緊張をはらんでいる最中「池田屋事件」が起こります。当時、会津松平家・薩摩島津家と協力関係にあった尹宮の屋敷の「放火」計画の「噂」があったようです。京都守護職の配下であった新選組は事前にその「噂」をつかみ、(その際、坂本龍馬の居宅も襲われている)会津松平家に連絡。会津松平家は対応を慎重に協議します。そしてそのような不穏な空気が漂う元治元(1864)年6月5日、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎が新選組に捕縛されます。古高の父は山科毘沙門堂門跡に仕え、また古高自身も長州毛利家の遠戚にあたることから、毛利家と有栖川家の強いパイプ役を期待されている人間だったそうです。この事態を受けて親毛利家の浪士たちは「古高奪還計画」をたてることとします―その会合が「池田屋」で行なわれます。かくして「池田屋」で「古高奪還計画」の会合中に親毛利家浪士が新選組に捕縛されてしまうのです。『池田屋事件の研究』の著者、中村武生氏は吉田稔麿文久3年以来、毛利家と徳川家との関係修復を模索し徳川家にもそれを望まれていたこと、毛利家京都留守居役・乃美織江(のみおりえ)の手記から桂小五郎が事件当夜、池田屋におり、屋根伝いから逃げたことを明らかにされています。さらにこの池田屋事件は、その後にやってくる毛利家と当時、京都で一勢力を担っていた「一会桑」( いちかいそう禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮・一橋慶喜京都守護職松平容保会津)、京都所司代松平定敬(桑名)3者)との対決・2度に渡る「長州戦争」や戊辰戦争の引き金になったと分析されています。謎の多い事件です。

小田村は3月に毛利家の命で武器を買っているようですがグラバーには面会しているのでしょうか。


「花燃ゆ」についてのつぶやき。元治元年(1864)6月頃〜7月頃。久坂玄瑞25歳。池田屋事件前日の6月4日、毛利家は京都進発を正式に決定します。池田屋事件の報せは6月9日頃五卿のもとへ伝わったようです。12日には大楽源太郎によってその知らせは山口へもたらされました。毛利家当主・定広の周辺は11日にすぐさま上京しようとしますが毛利敬親に諌められ一度は断念します。6月12日には毛利家使者が久坂や来島又兵衛のもとを訪れ、進発を一時見合わせるよう説得を試みます。意外なことに来島は説得に応じ、久坂は事ここに至っては「一刻の猶予もなりがたし」と反発しました。このように池田屋事件以前に京都進発が決定していたということは記憶に留めておいて良いでしょう。6月14日、毛利敬親が家老・益田右衛門介に出陣を命じます。6月15日、来島又兵衛が遊撃隊を率いて山口を出立。久坂も同日諸隊を率いて三田尻を出立しました。6月16日には家老・福原越後が出立。6月24日、久坂らは山崎の天王山・宝積寺・観音寺に陣を敷きました。
6月26日長州屋敷の浪士が脱走。これを受け27日来島が浪士鎮撫に向かいます。これが毛利家入京と誤解され、大混乱を招きます。長州毛利家の目的は戦闘ではなく、あくまで毛利家の入京・復権でした。長州側の記録では久坂らのグループを「清側義軍(せいそくぎぐん)」と称しているものもあります。毛利家の処置に関し、松平容保は討伐論、一橋慶喜は毛利家家臣を引き取らせたうえで様子をみようという慎重論に分かれましたが7月18日朝議は長州討伐に決定したのでした。

参考:中村武生氏『池田屋事件の研究』(講談社現代新書、2011年)

「花燃ゆ」についてのつぶやき。元治元年(1864)7月。久坂玄瑞25歳。
7月17日男山八幡宮にて「清側義軍」の進退を決する「男山会議」が開かれました。出席者は久坂・来島又兵衛真木和泉入江九一を含む十数名でした。「君側の姦」を除くべしとする来島と、あくまで嘆願を続けるべしとする久坂の間で意見が分かれ最終的には真木の発言で「進発」に決定しました。翌7月18日、清側義軍は松平容保の誅戮を訴え、伏見・嵯峨・山崎の三方面より進軍します。元治元年7月19日、「禁門の変」の発生です。「元治甲子戦争」といった方がわかりやすいかもしれません。嵯峨方面から進軍した遊撃隊は蛤御門で会津国司信濃組は中売立門で筑前とそれぞれ奮戦。彼らは御所まで向かいますが
来島が薩摩兵に股を貫かれ戦死。享年48.これにより毛利勢は総崩れとなります。一方、久坂や真木の浪士組は山崎から堺町門に向かい鷹司邸に飛び込み鷹司 輔煕に長州復権を嘆願しますがそれもかないませんでした。鷹司邸が諸大名家に取り囲まれたことにより久坂は寺島と自刃。久坂 享年25.寺島忠三郎 享年21.久坂から後のことを言い含められた入江九一も眼を付かれ自刃しました。享年28.一時鷹司邸から逃れた真木和泉は7月20日、天王山で同志17名と自刃しました。享年52.この戦争で町は戦火にさらされどんどん焼けといわれました。この頃、一橋慶喜松平容保松平定敬による一会桑が成立したといわれています。椋梨藤太は文を足蹴にしたのでしょうか。7月23日長州征討令が下り毛利家は追い込まれることになるのです。