「花燃ゆ」についてのつぶやき 第1話〜第17話 まとめ

「花燃ゆ」についてのつぶやき。ナレーションによると嘉永三年(1850)ですから松陰21歳、この歳九州遊歴の旅をし長崎にも足を伸ばしています。松陰の身分が毛利家の兵学師範ということもポイントでしょうか。
八重の桜のイメージとも重なる印象を受けました。玉木文之進ストイックですね。次回どうなるのでしょうか?

「花燃ゆ」についてのつぶやき。テロップによると嘉永4年(1851)ですから、松陰22歳。3月には参勤交代に伴い江戸に入っています。安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山等に学んでいます。6月には宮部鼎蔵と相模や安房の沿岸部の調査をしています。そして12月14日には通行手形を待たす毛利家江戸屋敷を飛び出してしまうのです。これは同志である江幡五郎の仇討ちを赤穂浪士の故事に倣って成就させようとしたものだと言われています。江戸屋敷を飛び出した罪を問われ、松陰は萩に帰国します。

そして翌年の5月から萩で謹慎生活を送ることになるのです。
ナレーションで多く触れられていましたね。
次回はどうなるのでしょうか?

「花燃ゆ」についてのつぶやき。ナレーションによると嘉永6年(1853)6月、松陰24歳。この年の6月3日にいわゆる黒船がやってきます。
松陰はこの報に接し6月4日浦賀に急行し黒船を目撃しています。
6月7日毛利家は江戸大森の警備を徳川家より命じられています。
次いで9月7日には周布政之助が政務役に任じられます。9月18日、松陰はプチャーチンの船に乗り込むために江戸から長崎に向かいますが既に10月23日プチャーチンの姿はありませんでした。10月27日松陰は長崎にたどり着きますが虚しく萩へと立ち戻りました。
11月14日毛利家が相州警備を命じられます。

また、松陰は11月25日に再び江戸遊学を許されています。そして翌年の3月5日には下田へと向かうのですがそれは次回以降の話になるのでしょう。久坂玄瑞が登場しましたがこの時は14歳でした。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政元年(1854) 、松陰25歳。3月5日に松陰は同志である金子重助とともに停泊中のペリー艦隊に乗り込むために下田に向かいます。いわゆる「下田踏海」事件です。松陰がベリーの黒船に乗り込もうとした理由は松陰が世界情勢を見聞したいと考えたからと言われてきましたが、近年では実は松陰はベリーを殺害するつもりであったのだとする説も提出されています。「下田踏海」事件については海原徹氏の『吉田松陰』(ミネルヴァ書房、2003年)や川口雅昭氏の『吉田松陰』(致知出版社、2011年)などに詳述されています。3月27日、松陰たちはポーハタン号への乗り込みを試みますが通詞のウイリアムスに乗船を拒否されます。これにより計画は失敗。松陰たちはボートで送り返され翌日名主宅へ自首。9月18日国許から松陰へ蟄居の幕令が下されます。10月24日松陰は萩へ送還され野山獄に投獄されます。
次回はどうなるのでしょうか?

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政元年(1854) 松陰25歳。10月24日、松陰と金子重助は萩に送られてきました。松陰は士分の野山獄に足軽の金子は百姓牢である岩倉獄にそれぞれ収容されました。

野山獄の向かいに岩倉獄はあったといいます。
松陰が収容された野山獄には、高須久子や富永有隣らを含めた11名の人物がいたようです。いずれも親戚から疎まれ遠ざけられた人々が野山獄にいれられていたようです。
獄は開放的とは言わないまでも書物や筆記用具などは比較的自由に持ち込めたそうです。兄である梅太郎が松陰のもとへ書籍を運んだといいます。
安政2年(1855)1月11日金子重助死去。享年25。萩へ護送される頃には既に肺を病んでいたといいます。

今回のお話でひとつ気になったことがあります。小田村伊之助と桂小五郎、西郷吉之助が初めて挨拶を交わすシーンがありましたが安政2年の段階ではあり得ない話ではないかと思います。西郷が主君島津斉彬の参勤交代に従って江戸入りを果たしたのが3月6日のことです。
桂は江戸にいたようですが…。

2人が出会うのは慶応2年1月8日薩長盟約締結のため桂が京都薩摩屋敷に入った時ではないでしょうか。
次回以降、松陰は「覚醒」してゆくのでしょうか。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政2年(1855)、松陰26歳。今回のお話のメインはなんといっても高須久子、この人に尽きるでしょう。
久子は松陰が入獄した安政元年の時点で39歳、在獄4年目でした。

高須家の未亡人であった久子は三味線や唄などを好んだ教養溢れる女性だったようですが不義密通の罪を問われ野山獄へ投じられます。明治元年に出獄したといわれています。投獄中、久子には松陰との間に密かなロマンスがあったともいわれていますがどうなのでしょうか。

ひとついえることは久子はミステリアスな女性ということでしょう。娘・糸とのエピソードは詳細がわかりませんのでひょっとしたらフィクションかもしれません。

松陰を始めとした獄中の「講義」は遅くとも安政2年の4月までには始められていたようです。同じ頃、小田村伊之助は江戸から萩へ呼び戻され藩校・明倫館の新館の舎長・書記兼講師に就任しています。この時伊之助27歳でした。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政2年(1855) 松陰26歳。4月12日頃より、『孟子』を中心とした松陰たちの「獄中講義」が始まりました。同じく野山獄の吉村善作は俳諧の講義を行い、富永有隣は書道の師となりました。これに司獄の福川犀之助も加わり、松陰たちの獄中講義は一定の成果をみせたようです。このような状況のなか、「福堂策」が6月1日と9月21日の2度にわたって脱稿されました。アメリカに倣い、獄の状態を改善しようと試みたこの福堂策は松陰なりの性善説に根ざしたものであったといえるでしょう。松陰が野山獄での約1年間の日々を経て出獄したのはこの年の12月15日のことでした。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政2(1855)年12月15日に松陰が獄を出、実家の杉家で蟄居したのは前回観た通りです。
実は「松下村塾」は松陰の叔父である玉木文之進天保13(1842)年萩松本村の自宅で始めたものだったのです。松陰や兄・梅太郎もここに通ったそうです。文之進が明倫館教授に就任したことにより「松下村塾」は1度は自然消滅。その村塾を引き継いだのは松陰の縁戚である久保清左衛門でした。つまり松陰はかぞえて3代目の塾頭になるわけです。
松陰が松下村塾で本格的に教鞭をとったのは安政3(1856)年の3月頃だといわれています。この時松陰27歳。初期の塾生である吉田栄太郎などは11月25日という入塾日まではっきりしています。
そして今回の主役ともいうべき久坂玄瑞はこの年17歳。3月には九州遊学をしています。久坂は安政3年5月より3度の書状での議論をへて松陰の門弟になります。
ずいぶんドラマチックに描かれていましたね…。
次回は高杉晋作が登場するようですね。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政3年(1856)〜安政4年(1857)頃でしょうか?松陰26〜27歳。安政3年頃に形作られてきた松下村塾には以前から松陰と親交のあった僧月性に教えを受けた赤根武人や前回観た久坂玄瑞など多くの人々が集っていました。高杉晋作松下村塾に「入門」したのは安政4年の8月とも、9月ともいわれています。晋作19歳のことでした。
高杉晋作天保10年(1839)8月29日に高杉家の長男として生まれました。高杉家は毛利家当主付といってもよい名門でした。松陰はプライドの高い晋作をもう一方の秀才である久坂と競わせ磨いていったようです。周囲より家格の高い晋作の存在は松下村塾のなかでも注目を浴びていたことでしょう。
松陰の下に集まる人々は日々「政治談義」を戦わせていたそうです。
10月松陰は野山獄囚の釈放を願い出6名が獄を出ています。
12月、松陰は萩にやってきた梅田雲浜に面会し政治議論を交わしています。ただしこの時が初対面ではないようです。
そして安政4年7月25日には野山獄を出獄した富永有隣を松下村塾の教員に迎えています。
今回活躍した敏三郎、エピソードはフィクションでしょう。彼はハンデキャップを抱えながらも写経などを黙々とこなす静かな人物であったようです。残された写真は松陰に瓜二つであったそうです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政4年(1857)8月頃〜11月頃でしょうか。松陰28歳。
吉田栄太郎(稔麿)が松陰の門人となったのは安政3(1856)年11月25日16歳の時でした。もと久保塾生であった稔麿は安政4年8月御供小使として三たび江戸に向かいます。今回稔麿が初めて江戸に行くかのような描写がされていましたがフィクションでしょう。高杉晋作は江戸に行く稔麿に向けて「無逸(稔麿)の東行を送る序」というはなむけの詩を贈っています。
同じく久保塾生であった伊藤利助が入塾したのが安政4年9月でこの時17歳。
同月 高杉晋作 19歳、秋には佐世八十郎 24歳と続々と入塾希望者が現れます。そして11月には杉家の宅地内に八畳一間の塾舎が増築されるのです。
次回は久坂が再びメインになるのでしょうか。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政4(1857)年11月頃でしょうか。松陰28歳。佐世八十郎と久坂玄瑞が主役の回でした。佐世八十郎こと、前原一誠天保5(1834)年毛利家上級家臣の家系に生まれました。17歳の胸と足を強打。それ以来前原は健康問題に悩まされることになります。この事故は前原の生涯に暗い影を落としたようです。勉学の傍ら農漁業や陶磁器製作に精を出していた前原が松陰と出会ったのは24歳の時。わずか10日ばかりの入塾でしたが頼山陽の『日本政記』を精力的に学んだそうです。ちなみに彼が前原姓を名乗るのは慶応元年(1865)以降のことです。
安政4年12月5日久坂玄瑞は文と婚約します。久坂玄瑞この時18歳。以降久坂は杉家の人々と同居します。久坂は文を好みではない、と一旦縁談を断りますが中谷正亮に推されて文と婚約したとのエピソードが残されています。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政4年(1857)12月〜安政5年(1858)4月頃でしょうか。松陰 28〜29歳。安政4年12月5日久坂玄瑞は文と婚約します。久坂18歳 文15歳のことでした。
松陰は文へ「文妹の久坂氏へ嫁ぐに贈る言」という詩を贈り久坂と文を激励しています。
久坂は杉家に同居し勉学に励みながら松陰をよく援けたといいます。今回ずいぶんコミカルに描かれていましたね。安政5年正月久坂は江戸遊学を許されます。西洋医学修行及びその基盤となる蘭語習得がその名目でしたがそれは表向きのことで諸国名士との交流し見識を広めることが江戸遊学の本来の目的でした。久坂の江戸遊学に対し「實浦(久坂)よ行け」を餞別の詩を贈っています。久坂が江戸へと旅立ったのは2月20日のことでした。3月13日大阪、16日には京都に入り、江戸についたのは4月7日のことでした。そしてナレーションでも触れられていた通り4月23日には彦根井伊家当主 井伊直弼大老職に就き時代は新たな局面を迎えるのです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政5(1858)年4〜7月頃でしょうか。松陰29歳。久坂玄瑞19歳。安政5年4月23日彦根当主 井伊直弼大老に就任して以来、公儀(幕府)は6月19日に日米修好通商条約を締結。ついで6月25日には13代将軍家定の後継として紀州慶福(後の家茂)が指名されます。これにより7月5日徳川慶喜を推した松平慶永ら、いわゆる「一橋派」に隠居謹慎等の命が下されます。翌7月6日家定が死去。
公儀は7月11日にはロシアと7月18日にはイギリスとそれぞれ通商条約を結びます。

久坂はそのような最中の7月18日に入京し、24日には梅田雲浜宅でわらじを脱いでいます。
コレラが日本で猛威を奮ったのはこの年の8月頃だといわれています。

小野為八は弘化元年(1845)に松陰に兵学を学び安政5年30歳のときに松下村塾に入門しました。
まさに時代は「内憂外患」の季節を迎えていたのです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政5(1858)年9月頃〜12月。松陰29歳。勅許(朝廷の許し)を得ないまま諸外国との条約を締結した公儀(幕府)に不信感を抱いた朝廷は、「勅許を得ず条約を締結したことは不審である。この上は速やかに尾張・水戸家当主の謹慎を解き、諸大名の協力を仰ぎ、政治を安定させて欲しい。公と武が一致すれば憂いもなくなるだろう」とする、本来公儀に下すべき詔勅安政5年8月8日直接水戸徳川家へと降し、さらに諸大名へも回覧しようとしました。これを、密かに下された詔勅ということで密勅、さらにこの年の干支にちなみ戊午(ぼご)の密勅といいます。徳川家からすると戊午の密勅は朝幕関係を蔑ろにするようにうつったのです。
9月より密勅に関わった者への捕縛が始まりました。いわゆる安政の大獄です。9月8日には梅田雲浜が捕縛されます。梅田捕縛の場に久坂が居合わせたのか不明ですが…。
9月9日、松陰は松浦亀太郎紀州家家老 水野土佐守襲撃を提案しています。また松陰は10月頃赤根武人に獄に繋がれた梅田を救出するために伏見獄破壊を提案。ちなみに赤根は梅田とともに捕縛されますが9月17日に釈放され、赤根は翌年まで萩で謹慎を余儀なくされます。
11月頃松陰は安政の大獄の実質的指導者である老中間部詮勝要撃を企てます。武器の貸出しを願い出ますが、徳川家との関係性の破綻を恐れた毛利家政府は松陰の企てを拒否。松陰を支えてきた祐筆の周布政之助は特に異を唱えたといいます。数々の計画に失敗した松陰は「学術純ならず。人心を動揺す」との理由で11月29日に自宅謹慎を言い渡されます。そして12月26日には再び野山獄に投ぜられるのです。

「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政5(1858)年12月頃〜安政6(1859)年3月頃でしょうか。松陰29〜30歳。
安政5年12月26日松陰は再び野山獄に投ぜられました。この松陰再投獄に憤り、佐世八十郎、作間(寺島)忠三郎、品川弥二郎、吉田栄太郎ら8名は毛利家政府重役を厳しく弾劾しましたが失敗に終わります。この際、周布政之助は自宅の裏門から慌てて逃れ去るという一幕もあったようです。
さて再び野山獄に投ぜられた松陰でしたが、その環境は1度目と同じようにかなりゆるやかなもので比較的多くの知己友人との面会や書簡往復などが許され、また以前のように句会も開かれていたようです。獄中においても松陰は当時、過激派公家であった大原重徳を擁して毛利家以下西国諸家で決起しようとした「大原三位下向策」や伏見襲撃を試みた「伏見要駕策」を計画しますがいずれも失敗に終わっています。同志のほとんどが松陰の急激な思想について行けず、その過激な発想をたしなめる久坂や高杉に対して「僕は忠義をなすつもり、諸友は功業をなすつもり」と認めたのはよく知られた逸話です。数々の計画が失敗に終わった3月頃、松陰は在野の人々(草莽)があらゆる可能性を信じて動き出すべきであるとする「草莽崛起」論を唱えたのでした。

 「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政6(1859)年4月頃〜5月。松陰30歳。
安政6年4月20日、公儀(幕府)より毛利家江戸屋敷へ松陰の身柄引き渡しの命がくだされました。松陰自身は、5月14日に兄の杉梅太郎からこの報せを受けています。
折しも江戸では先年9月頃より安政の大獄の嵐が波及していました。松陰の今までの過激な策が公儀に洩れたのではないか、と毛利家政府は焦りの色を隠せなかったようです。
5月21日、松陰の不帰を予期した久坂玄瑞らは画の心得のある、松浦亀太郎(松洞)に松陰の肖像画を描かせます。松陰はその肖像画に賛(文章)を記しています。5月24日、福川犀之助の独断で松陰は杉家に戻ります。家族や友人に別れを告げるためでした。(福川はこの行動で10日の謹慎処分を受けています)。母滝は風呂で松陰の背中を流しながら言葉を交わしたといいます。
翌5月25日松陰は30人に護送され萩を立ちました。30人という仰々しい人数は同志大高又次郎らによる松陰奪還計画を恐れたためだといわれています。
萩城下を出立した松陰の駕籠は途中、松陰の要望を容れ「涙松」で小休止します。萩を旅立つ人はこの老松をみて別れの涙を流し、萩へと戻ってきた人は喜びの涙を流すという故事から涙松と呼ばれたそうです。松陰はこれからの旅を想い「帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな」と残しています。

 「花燃ゆ」についてのつぶやき。安政6(1859)年6月頃〜10月。
5月25日に萩を出立した松陰が江戸に着いたのはそれから1か月後の6月25日のことでした。
7月9日には久貝因幡守・池田播磨守・石谷因幡守3名の閣僚による松陰への尋問が行われました。その議題は梅田雲浜との交流の有無、御所内の、公儀批判をした落とし文が松陰の手になるものか否か、でした。松陰は梅田との交流については、(萩城下を訪ねた際)学問上の議論をしたに過ぎず格別の用事があったわけではないと答え、なおかつ梅田は自分を子ども扱いするところがあり、ともに事をなす同志ではないと付け加えています。

落とし文については、自分は落とし文のような姑息なやり方は好まず、使われている用紙も自身のものではない、と否定しました。

松陰への尋問は一通り終了し、石谷たちは松陰の情勢認識に関心を持ち現今の国事について松陰に尋ねました。松陰は自らの履歴と国事についての問題認識を縷々語ったといいます。そして、この雑談ともいうべきなかで「自分には死罪にあたる罪が2つあるが周囲の者に迷惑がかかるのでいいたくない」といいながら、「大原三位下向策」および「間部老中要撃策」について口を滑らせてしまうのです。間部老中要撃に動揺した幕閣は松陰を伝馬町の獄に投じました。松陰は9月5日、10月5日と取り調べを受けましたがとりわけ進展もありませんでした。しかし10月16日の審議は非常に厳しく「公儀に対し不敬の至り」、「御吟味を受け誤り入り奉り候」とのかどを以て安政6年10月27日松陰は斬首されます。吉田松陰 享年 30。 ちなみに井伊直弼と松陰の対面はフィクションです。の最期は少し取り乱したものであったとも、静かなものであったともいわれています。松陰の幽霊はいただけませんねえ…。
いわゆる「安政の大獄」の嵐が過ぎ去るのはこの年の12月以降のことでした。