論文感想 藤田英昭氏論文 「徳川慶勝の幕末『異郷』体験」を読む

平成二十六年新宿歴史博物館「高須四兄弟」展展示図録所収の藤田英昭氏の論文「徳川慶勝の幕末『異郷』体験」を紹介したい。論文の筆者である藤田英昭氏は幕末維新期の徳川家や、草莽(一般には「志士」と呼ばれる)など多岐に渡る研究をしている方である。
近年「高須四兄弟」が有名になっている。「高須四兄弟」とは尾張徳川家の分家である「高須家」出身の四人を指す。
次男であり、本論文の主役でもある尾張徳川家当主徳川慶勝は第一次長州戦争時に長州の処分を寛大に処置したことで有名である。五男の徳川茂徳(もちなが)は、慶勝が安政の大獄で隠居した際、義勝の後を継ぎ文久三年まで、尾張徳川家第当主を務めた。慶勝が藩政に復帰すると尾張家内部は慶勝派と茂徳派に分裂した。このため茂徳は隠居し、慶応二年になって一橋家を相続した。七男の松平容保会津藩主、八男の松平定敬桑名藩主となり、京都守護職京都所司代としてそれぞれ活躍し維新に際しては戊辰戦争を戦い抜いたことはよく知られるところである。
さて、本論文は文久三年の将軍上洛に先立って京都に足を踏み入れた徳川慶勝が「異郷」の地ともいえる場所でいかなる日常を送りどのような思いで彼の地の風俗や社会をみていたのか、ということが丁寧に述べられている。以下みていきたい。慶勝は西洋諸国との対峙のため、富国強兵や国内の安定が不可欠であると考えていた。慶勝が考える国内安定の状態とは朝廷と幕府が一致した状態であり、そのうえで当時の対外課題となっていた「攘夷」の指揮を「征夷大将軍」たる徳川家茂自らが行うことが前提とされた。さらに慶勝は諸大名を圧倒する武威発揚に積極的であり、徳川家の「御武運」回復のためには「帝坐御守衛」(京都を守ること)は将軍や徳川家門が独占的に当たるべきだと認識していた。
そのような立場の慶勝が上京したのは文久三年正月八日のこと。正月十五日には、初めて御所に参内し天拝を賜った。
慶勝の京都での宿泊先は縁戚にあたる近衛家の別邸である河原御殿であった。
この、御所近くの河原御殿を拠点に慶勝の「国事周旋」が行われた。河原御殿には松平容保や幕閣などが頻繁に訪れ慶勝と「御用談」を行った。「将軍捕翼」に任じられた慶勝は将軍家に次ぐ、従二位前大納言として、尊王攘夷の旗頭・水戸徳川斉昭の甥として草莽層の期待を受けながら公武周旋に尽力していったのである。
本論文は以上のような状況を踏まえつつ、慶勝の自筆記録「西上記」などを通して、彼がみた「異郷」を繊細に描写している。
「西上記」に収録された、「うつヽにも夢にもみえぬ雲の上にのほるは君の恵なるらむ」という和歌には上京を果たし、御所に初めて参内した慶勝のこの上ない感動が表れている。
この他にも「西上記」には「東之風光」として河原御殿の慶勝の部屋から見える風景を、「風光十分にして、加茂川自南北に流れて洲広し、かり橋かヽりて往来之人多し、二条之はしより三条之橋迄之間也、白ぬの沢山々々州にさらし有て如雪にみゆる」とその趣を記している。
また、松平容保が黒谷の金戒光明寺京都守護職の本陣を置いたのは当時の法主・定円が高須関係者であり、容保と黒谷を結ぶ接点に高須が介在したという事実は兄弟たちにとって「共通認識」だったのだろうという指摘は、非常に興味深く「高須四兄弟」、ひいては幕末維新史を考える上で重要であろう。
慶勝は京都の名物として「牛ノクソ(糞)」・「人のクヒ(首)」・「風邪」などを挙げている。
「牛ノクソ(糞)」は牛車の往来が頻繁なこと、「人のクヒ(首)」は当時攘夷派による「天誅」が流行し被害者の首が公家の屋敷に投げ込まれたことなどを指していよう。「風邪」は当時の京都が非常に寒く慶勝自身も風邪に悩まされていたことによろう。
慶勝は不本意な「将軍捕翼」就任や「井の内のかわづのごとき」公家衆との交渉や「国事周旋」に心身ともに疲れ果てていたのではないだろうか。京都の風景が慶勝を癒すことはなくなっていたのである。
そして慶勝は「田舎之戸山ニ住みなれたれハ、中々夫ニハ及かたし、是を以て考るニ故郷ニしくわなし」と「西上記」に書き付け、自身の生誕地である四谷上屋敷と「故郷」である「田舎之戸山」(尾張下屋敷)を強く懐かしむのであった。

今回の藤田氏の論文は、慶勝がみた「異郷」を丹念に映し出すことによって、慶勝の強い「故郷」への想いをも反射させているように思われる。「故郷」の「戸山」と慶勝のアイデンティティーが深く、強く結びついていることがわかる。また、京都を分析対象することで「場所」が個人にどのような影響を与えているのか、という良い例を示している。
慶勝の心のひだにまで入り込み、彼がみた京都を追体験できるかのような考察は歴史を研究する醍醐味を教えてくれる。
そして何より藤田氏の慶勝に対する鋭い分析と優しいまなざしが印象に残った。