幕末維新史雑考

大河ドラマ「八重の桜」で幕末維新史が注目を浴びている。ここでは筆者が幕末維新史を勉強しながら気になっていることを取りあげてみる。幕末の志士の代表格といえば坂本龍馬という名前を頭に浮かべる方が多いだろう。しかし龍馬の事績を史料で分析をすることは意外と難しい。例えば龍馬の業績の一つとして有名な「船中八策」であるが、この「船中八策」は原本が存在しない。原本が存在しないということは本来であれば、写本も存在しないということである。つまり「船中八策」は後世に作られたエピソードであったということになる。さらに龍馬の「暗殺」、殺害についてであるが、この暗殺に関しても京都見廻組以外の関与を見出すことは難しい。また見廻組の立場からすれば「公務」として龍馬を斬ったのであるから単純に「暗殺」とは言い難い。また龍馬の殺害を指示したのは薩摩だとする説をたまにみかける。武力で「倒幕」(個人的にはこの言葉があまり好きではない)を行おうとしていた薩摩が、政権返上(大政奉還)運動に邁進していた「平和主義者」龍馬を疎ましく感じ殺害を命じたというものだ。龍馬は「平和主義者」ではない。龍馬は当時、生まれ故郷である土佐を薩摩と長州に並び立たせようと必死だったのである。「薩摩龍馬殺害説」は「薩土盟約」解消後、薩摩と土佐の連携が決定的に破綻していることが前提である。しかしそのようなことはありえない。かりに土佐の人間である龍馬を薩摩が手にかけることにどのようなメリットがあったというのだろうか。筆者は龍馬の真骨頂は「草莽(志士)」の集団の有能な「巨魁」、リーダーであったということに尽きると考えている。「亀山社中」という「草莽」集団をまとめあげながら、薩摩・長州・土佐間の周旋に尽力した―これこそ龍馬の魅力ではないだろうか。さて龍馬エピソードにも必ず登場する「大政奉還」。これを実行したのは第十五代将軍徳川慶喜である。筆者は近頃慶喜に関してもいろいろと考えている。その一つは慶喜の「血脈」を巡る問題である。慶喜は「鳥羽伏見戦争」のあと、大坂城から「脱出」する。その遠因は慶喜が水戸家と朝廷双方の血を引き、さらにさかのぼれば霊元天皇にまで行き着くといった彼の「血脈」による。この「血脈」のため慶喜は朝廷に弓を引くことが出来なかったのではないか。「政治家」としての慶喜を支えた人々は数多く存在したが、筆者はその中でも特に徳川慶勝徳川茂徳(もちなが)・松平容保松平定敬の高須松平家尾張徳川家の分家)出身の兄弟たちを重要視している。それはこの兄弟が慶喜の親戚であり、さらに慶喜が容保・定敬とともに一時期、「一会桑」と呼ばれるグループを形成し、京都政局に影響を及ぼしたということからもわかる。慶喜はその「血脈」を常に意識しながら行動していたに違いない。慶応二年十二月、将軍に就任した慶喜は翌年十月には「政権返上=大政奉還」を行う。二つ目はこの「大政奉還」についてである。「大政奉還」に関しても、慶喜が政権返上後、再び朝廷から政権が返上されることを予期し、「大君」(将軍)制国家」を造りあげようとしたとの説もあるが、大政奉還を行う時期に慶喜が最も恐れていたと思われるのは「内乱」である。やはり近々開かれるであろう「諸侯会議」を待って様子を見ながら、自らの行動を決定しようとしていたのではないだろうか。三つ目は慶喜の住まいの問題である。つい先日京都へ行き、慶喜が京都で使用していた屋敷(若州屋敷、「京都御旅館」ともいう)跡を見学した。慶喜は将軍就任後もすぐには二条城に入らずしばらくの間、この若州屋敷を利用した。この屋敷は非常に広く、二条城や大名屋敷にも、親交のあった新門辰五郎の宿舎「来迎寺」にも非常に近い。若州屋敷はまさに慶喜を「政治家」たらしめた場所であったのだろう。慶喜に限らず、幕末維新期の人物がどこに住んでいたのか―は見過ごしがちであるが興味深い問題である。

(例えば龍馬が三十三間堂近くの「大仏」に暮らしていたことが近年明らかにされたように)。
このようなことをここしばらく考えつつ、もうしばらくしたら勝海舟慶喜の関係なども勉強してみたいと考えている。

長文にお付き合いくださりありがとうございました。