「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第11話 感想

「八重の桜」第十一話。「守護職を討て!」。お話の時期は佐久間象山が殺害され、さらには「禁門の変」の直前期となる元治元(一八六四)年七月。八重二十歳。元治元(一八六四)年七月十一日、佐久間象山は以前より親交のあった山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)を訪ねますが、山階宮が不在であったため、代わりに山階宮の執事・国分番長に面会し半刻(約一時間)ほど話し込み、山階宮邸を去りました。その後、門人である蟻川賢之助(ありかわけんのすけ)と三沢刑部(みさわぎょうぶ)を訪ねますが両人ともに不在。酉刻(午後五時頃)愛馬「王庭」に跨り、使用人である半平とともに三条上る木屋町に差し掛かったところ、肥後の河上彦斎・讃岐の松浦虎太郎らに襲撃され、象山は十三ヶ所の傷を受け絶命しました。佐久間象山享年五十四。信州松代真田家では象山が「後ろ疵を受けて絶命したことは武士にあるまじき醜態」であると断じ、七月十四日、佐久間家の知行及び屋敷を召し上げ、象山の息子・格二郎に蟄居を命じました。格二郎はその後新選組に入隊し三浦 啓之助(みうらけいのすけ)と名乗りますが、この、格二郎の新選組入隊には覚馬と勝海舟の尽力がありました。「池田屋事件」直前の六月四日、長州毛利家の京都「進発」が決定します。六月十二日には池田屋事件前後の「京師擾乱(けいしじょうらん)」の状況を受けて、進発を「一時見合わすべし」とする来島又兵衛と、「片時も猶予成り難し」とする久坂玄瑞入江九一との間で論争が起きました。六月十五日来島又兵衛他久坂・真木和泉が京都へ向けて出立。六月二十六日には長州屋敷に潜伏していた浪士たちが「脱走」しました。翌六月二十七日には「浪士鎮撫」の目的で来島又兵衛天龍寺に派遣されます。これが長州毛利家の京都「進発」に誤解され、諸大名を巻き込んだ騒動になったようです。この時病にあった容保も出動しています。以上のような状況を受けて元治元年七月十八日深夜、一橋慶喜は長州毛利家「排除」を決定し孝明天皇に勅許を賜るのでした。「鉄砲」を広めるために「別選隊」に加わりたいという三郎の志とそれを支える山本家もいいですね。

 参考文献: 大平喜間多氏 『佐久間象山』 (吉川弘文館、一九八七年。)

     中村武生氏『池田屋事件の研究』(講談社現代新書、二〇一一年。)