「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第10話 感想

「八重の桜」第十話。「池田屋事件」。お話の時期は(テロップでは元治元年四月となっていましたが)佐久間象山が上洛を果たした元治元(一八六四)年三月頃から新島七五三太が函館からアメリカへと「密航」した元治元年七月頃でしょうか。八重二十歳。元治元年三月二十九日、将軍・徳川家茂の命(実際には禁裏御守衛総督であった一橋慶喜の要請)により佐久間象山が入京。四月三日には二条城を訪れています。四月十日には「開国」を志向していた皇族・山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)に面談。象山は晃親王天文学や西洋兵法を語り大きな信頼を得たようです。次いで四月十二日には一橋慶喜に面談。この時期になると、「天下治平」の策≒開国論を掲げていた象山の名声は京都政局に響き渡っていたようです。五月一日には将軍・家茂に拝謁。五月三日と十五日には山階宮晃親王の弟である中川宮に面会し、時勢を論じています。この間、象山は薩摩島津家家臣・高崎正風や西郷吉之助などの訪問も受けているようです。これと前後して象山は覚馬や同じく会津松平家家臣の広沢富次郎らと密議を凝らし、孝明天皇を御所から彦根城に移さんとする「彦根遷都」を計画します。これは会津松平家の兵力を動員し、混乱の続く京都周辺から彦根に御所を遷し、孝明天皇を守護するという計画でした。覚馬が洋学所を開いたのもこの頃のようです。そのような状況下の元治元(一八六四)年六月五日「池田屋事件」が起こります。「池田屋事件」には意外に知られざる面が多いのです。文久政変(文久三<一八六三>年)以降長州毛利家の家臣たちは上京を果たそうと必死に活動を続けていました。毛利家家臣たちは朝廷との交渉役として、父が山科毘沙門堂門跡に仕え、また自身も長州毛利家の遠戚にあたる古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)に期待をかけていました。 当時、会津松平家・薩摩島津家と協力関係にあった尹宮の屋敷の「放火」計画の「噂」があったようです。新選組は事前に、その「噂」をつかみ、(その際、坂本龍馬の居宅も襲われています)会津松平家に連絡。会津松平家は対応を慎重に協議し長州毛利家と全面対決も辞さない覚悟であったともいいます。そしてそのような不穏な空気が漂う元治元年六月五日、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎が新選組に捕縛されます。これを受けて親毛利家の浪士たちは「古高奪還計画」をたてます―その会合が「池田屋」で行なわれます。この「池田屋」で「古高奪還計画」の会合中に親毛利家浪士が新選組に捕縛されたわけです。吉田稔麿沖田総司には斬られたわけではないらしく(吉田稔麿文久三年以来、毛利家と徳川家との関係修復を模索し徳川家にもそれを望まれていました)、桂小五郎が事件当夜、池田屋におり屋根伝いから逃げたことを明らかになっています。また「池田屋事件」の以前から毛利家内に「京都進発論」がすでに存在したことも重要でしょう。覚馬が池田屋にやってきたのかどうか・・・?です。元治元年六月十四日、新島七五三太が函館からアメリカへと「密航」します。七五三太の「密航」には坂本龍馬の親戚である沢辺琢磨が関わったといわれています。

参考文献: 青山霞村氏『改訂増補 山本覚馬伝』(京都ライトハウス、一九七六年。) 
     大平喜間多氏 『佐久間象山』 (吉川弘文館、一九八七年。)
     中村武生氏『池田屋事件の研究』(講談社現代新書、二〇一一年。)