「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第9話 感想

「八重の桜」第九話。「八月の動乱」。お話の時期は「文久政変」―八月十八日の政変―が計画、実行された文久三(一八六三)年八月から翌元治元(一八六四)年の三月頃まででしょうか。八重十九歳〜二十歳。文久三年八月以前の朝廷は三条実美などの「即今破約攘夷派」が幅を利かせていました。「即今破約攘夷派」は(穏健に「攘夷」を行いたいと考える孝明天皇の意思を超えて)、「大和行幸」を行い「攘夷」を祈願すべく動いていました。そのような状況下の文久三年八月十三日、薩摩島津家家臣・高崎正風は秋月悌次郎に面会。高崎は秋月に朝廷の現状を説き、最近の勅旨は三条実美真木和泉らによる「偽勅」であり大和行幸も三条・真木らによる画策であると断言。そのうえで三条ら「即今破約攘夷派」排除のために守護職である容保及び会津松平家の協力を得たい、万が一会津松平家の協力が得られずとも薩摩島津家のみで「即今破約攘夷派」の排除を行うつもりであると、高崎は秋月に述べたといいます。秋月は即座に容保に諮り高崎からの申し出を受け入れました。高崎は、当時「攘夷実行」に慎重であった中川宮朝彦親王に「會津松平家―薩摩島津家」の盟約が成ったことを告げ尽力を要請。八月十五日までには会津松平家―薩摩島津家(の在京勢力)―中川宮の間で最終的合意が成立していたようです。しかし孝明天皇も慎重な姿勢を崩さず、当初八月十六日に予定されていた「計画」は延期されてしまいました。同日、中川宮が孝明天皇の「叡慮」を伺うと武力を用いた三条らの「排除」には賛意を示してはいたものの、孝明天皇はまだ心のなかで葛藤を繰り返していたのです。八月十七日、勅諚が下り、三条実美らの参内禁止・大和行幸延期・長州毛利家の堺町門警備解任などが決定されました。文久三年八月十八日、子の刻(午前一時頃)、中川宮、武装した淀・会津兵、呼応した薩摩兵が九門を警備し、前関白近衛忠煕が参内。虎の刻(午後四時頃)には御所の警備が整いました。長州毛利家はこの状況に抵抗を示しましたが三条実美らとともに長州へ落ち延びて行くのでした。(七卿落ち)これが文久三年八月十八日「政変」の概要です。この政変の主役たる容保は文久三年十月孝明天皇から「暴論をつらね不正の処置増長につき、痛心に堪えがたく、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患を払ってくれ、朕の存念を貫徹の段、全くそのほうの忠誠にて、深く感悦の余り、右一箱、これを遣わすものなり」との御宸翰とともに、和(やわ)らくも たけき心も相生(あいおい)のまつの落葉のあらす栄えむ/もののふと 心あわしていわおをもつらぬきてまし 世々のおもいて という御歌を賜りました。なお覚馬が上京してくるのは「政変後」の元治元(一八六四)年二月のこと。したがって高崎と秋月の面談の時にはまだ京都には来ていないはずです。 伊藤悌次郎や高木時尾の弟・高木盛之助が出てくるのはいいですね。時尾が照姫の右筆に選ばれたのはいつ頃のことでしょうか。「病弱」な容保の表現がうまいと思います。

参考文献:家近良樹氏『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、一九九五年。)
桐野作人氏「八・一八の政変」(『幕末大全 上』 学研、二〇〇四年)
町田明広氏『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ、二〇〇九年。)