「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第8話 感想

「八重の桜」第八話。「ままならぬ思い」。お話の時期は第十四代将軍・徳川家茂が初めて上洛し、御所に参内した文久三(一八六三)年三月から会津松平家が「馬揃」を天覧に供した文久三(一八六三)年七月頃でしょうか。八重十九歳。文久三年三月四日、徳川家茂は(上洛し)二条城に入城。三月七日には初めて御所に参内します。征夷大将軍の参内は三代将軍・家光以来、二百二十九年ぶりのことであったといいます。家茂はこの日の正午過ぎ、単の衣冠に身を包み、御所へ参内しました。まず家茂は(御所内の)「鶯の間代」に通され、関白・鷹司輔煕以下、各大臣に面談。「攘夷実行」についても言及したといいます。その後、家茂は「小御所」にて孝明天皇に拝謁しました。孝明天皇は「攘夷」を掲げながらも幕府(公儀)との対立は望まない、そのような天皇でした。孝明天皇は家茂を強く信頼し、家茂も孝明天皇を崇拝する、そういった関係が築かれていったのです。この日の参内で孝明天皇は「征夷将軍の義是迄通り、御委任」という旨の勅書を家茂に授けました。これは「征夷将軍」である家茂に「大政(政治)」を委任し「攘夷」を任せるという意味でした。この勅書は前年(文久二年)十二月九日に設置された「国事御用掛」(国事を考えるセクション)の一員で「赤心堂上」(真心を以て天皇に仕えている公家)とも称された(しかし孝明天皇の意思と異なる行動をとることもあった過激派)三条実美らが計画したものでした。なお、将軍後見職である一橋慶喜も参内しましたが、遠く「麝香間」に控えていたそうです。文久三年三月十一日家茂は賀茂神社への「攘夷祈願」の列に加わります。この時家茂は雨のなか孝明天皇に平伏したと伝わります。この後孝明天皇の懇願もあり、家茂は六月まで京都に留まります。文久三年三月十日には、二月二十三日に上京してきた清河八郎らと浪士組の一部である芹沢鴨近藤勇が対立し、芹沢・近藤組が残留。芹沢・近藤は容保に建白書を提出し「京都守護職預」「壬生浪士組」となりました。芹沢鴨近藤勇浪士組は「尊王攘夷」を掲げ、「草莽」集団として京都で活動することになるのです。文久三年三月頃の朝廷は即時「攘夷」を行おうとする「即今破約攘夷派」(三条実美や長州毛利家など)と「攘夷実行慎重派」(孝明天皇や薩摩島津家)などの派閥に分かれていました。そのような状況のなかで文久三年五月十日長州毛利家の久坂玄瑞らが異国船を砲撃し「攘夷」を実行しました。五月二十日、姉小路公知が何者かに殺害されました(朔平門の変。)事件の容疑者と思われる田中新兵衛は五月二十六日に自殺しています。京都情勢が刻々と変化し容保の任が重くなる文久三年七月、容保と会津松平家が「馬揃」を天覧に供するのでした。浪士組と長州系「草莽」の対立の描写が少し気になりました。山本覚馬の上京は翌年の元治元(一八六四)年ですから勝海舟との面談はフィクションでしょう。容保が「偽勅」云々と口にしていましたが、「偽勅」というよりも公儀と朝廷から諸所へそれぞれ命令が下されるという、混乱をきたした「政令二途」の状態でした。文久三年に西郷頼母が上京してきたのかどうか?です。八重、容保、頼母、孝明天皇、公家、長州・・・時代はそれぞれの「ままならぬ思い」を飲み込んで、急速に進んでゆくのでした。
参考文献

徳川家茂とその時代』図録(江戸東京博物館、二〇〇七年。)
 久住 真也氏『幕末の将軍』(講談社選書メチエ、二〇〇九年。)
 町田 明広氏『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ、二〇〇九年。)
 松浦 玲氏『新選組』(岩波新書、二〇〇三年。)