「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第7話 感想

「八重の桜」第七話。「将軍の首」。お話の時期は越後浪人・本間精一郎が殺害された文久二(一八六二)年閏八月二十日頃からいわゆる「足利三代木像梟首事件」が起き、会津松平家が「言路洞開」から浪士の捕縛へと方針転換を行う翌文久三(一八六三)年二月まで。八重十八歳〜十九歳。文久二年閏八月二十日越後浪人本間精一郎が殺害されます。続いて同月二十三日には宇郷玄蕃頭重国(うごうげんばのかみしげくに)が、同三十日には猿の文吉(ましらのぶんきち)が、九月三十日には渡辺金三郎(わたなべ きんざぶろう)、森孫六(もり まごろく)、大河原重蔵(おおがわら じゅうぞう)、上田助之丞(うえだ すけのじょう)ら四人の京都町奉行与力が「天誅」の名のもとに殺害されました。これら多くの「天誅」には土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛らが加わっていたともいわれています。「天誅」で殺害された者たちは安政の大獄などで尊王攘夷の志士―「草莽」の「弾圧」に関わったとされる人々でした。そのような「天誅」が横行する状況下、容保が京都守護職に任命されたのは文久二年閏八月一日のこと。十二月九日には江戸を発ち京都に着いたのは二十四日のことでした。「会津肥後さま、京都守護職つとめます。内裏繁盛で公家安堵、とこ世の中ようがんしょ」容保が守護職として上京した頃、このような歌が流行ったといいます。容保への期待がうかがえる歌です。容保は、守護職本陣を浄土宗金戒光明寺に置きました。、文久三(一八六三)年一月二日容保は御所へ参内し、孝明天皇より緋の御衣を賜りました。一月七日(雑務や諸大名家との諍いを避けるため)「公用方(公用局)」設置します。この「公用方(公用局)」の仕事は容保と在京家老間の意見のとりまとめ、朝廷―公儀(幕府)間への周旋、諸大名家や京都における情報収集、公儀への経済活動等々、非常に幅が広く(病弱な容保に代わって)守護職の実務を果たした組織でした。この「公用方(公用局)」で頭角を顕わしたのが秋月 悌次郎でした。劇中、覚馬が容保に従って上京しますが覚馬が上京するのはこれより二年後の元治元(一八六四)年です。文久三年二月二十二日、「足利三代木像梟首事件」が起こります。京都等持院にあった足利三代(尊氏、義詮、義満)の木像の首と位牌が持ち出され、賀茂川の河原に晒されたのです。この事件には大庭恭平も「密偵」として潜入していました。容保はこれを契機に「言路洞開」(さまざまなものの意見に耳を傾ける)から浪士の捕縛へと方針転換を行うことを決意したのです。単純な「尊王攘夷=倒幕」の図式は如何なものでしょう・・・。慶喜と春嶽の描写ももう少し深みがあると嬉しいです。神保修理・雪子夫妻や天真爛漫な日向ユキちゃんなど華やかになってきましたね。

参考文献:家近良樹氏『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、一九九五年。)