「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第6話 感想

「八重の桜」第六話。「会津の決意」。お話の時期は嘉永七(一八六〇)年三月の「桜田門外の変」から松平容保京都守護職を拝命する文久二(一八六二)年閏八月まで。八重一六歳〜一八歳。「桜田門外の変」での井伊直弼の横死後、容保は、水戸徳川家討伐の不可を主張し徳川宗家と水戸徳川家の間を周旋しました。この一件により、公儀(幕府)内部での容保の評価は飛躍的に高まったといわれています(万延元年十二月この功により容保は左近衛権中将に昇進)。八重さんのまわりは賑やかです。山川家の二葉が梶原平馬と結婚。二葉の実家である山川家には長女である二葉のほかに大蔵(おおくら)、三輪、操、健次郎、常磐、咲子という子どもたちがいました。山川家も幕末の会津松平家を考えるうえで重要な家系です。文久元(一八六一)年十月、容保の正室である敏姫(としひめ)が十九歳の若さで死去。文久二年四月、薩摩島津家の「国父」である久光は勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)とともに「幕政改革」を要求。その「改革」目玉のひとつが人事改革で、七月六日、一橋慶喜将軍後見職に、七月九日前福井松平家当主、春嶽を政事総裁職に任命しました。そして、「尊王攘夷」の名のもとに「天誅」を横行させていた長州・土佐系の浪士に対応し、治安を維持するために設置された役職が「京都守護職」だったのです。(この京都守護職には当初、久光も内定していましたが諸大名家の家臣に牛耳られている京都の状態に失望し文久三(一八六三)年四月十六には辞退しています)。文久二年閏八月一日、容保は京都守護職に就任。家老の横山主税そして、容保自身も再三にわたって固辞しますが春嶽に「家訓」を持ち出され、大老死後の「溜間詰」大名の責務として、引くに引けない守護職就任だったのでしょう。西郷頼母田中土佐は「陳止」しますが、容保は涙を流しながら「家訓」を諳んじ守護職就任の決意を固めるのでした。「会津の決意」を見せつけるかのように―。「綾野」容保いいですねえ。久しぶりに胸が熱くなりました。切なさのなかにも「凛」とした容保像があるような気がします。