「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第5話 感想

「八重の桜」第五話。「松陰の遺言」。お話の時期は吉田松陰が江戸で取り調べを受けている安政六(一八五九)年七月頃から「桜田門外の変」が起きた翌年の万延元(一八六〇)年三月まで。八重十五歳〜十六歳。吉田松陰が公儀(幕府)の評定所に最初の呼び出しを受けたのは安政六(一八五九)年七月九日のことでした。七月九日の詮議では劇中で描写されていたように梅田雲浜との関係について問われたようです。これに対し松陰は(雲浜とは)学問の議論を行っただけである、そもそも(松陰は)雲浜を快くは思っていない、と返答しています。また京都御所内に公儀の政策を批判した落とし文があり、その落とし文が松陰によるものではないかとの疑いを受けますが、松陰はこれを否定します。松陰に対する詮議はこれで済むはずでした。奉行に「国事」についての意見を問われた松陰は日頃の存念を述べようと時事と「自らの罪」―老中・間部詮勝襲撃を企てたことを「告白」しました。この老中襲撃の「告白」により松陰は伝馬町牢屋敷に送られます。松陰の発言に奉行が戸惑ったためか、審議がはかどらず九月五日に第二回目、十月五に第三回目の詮議がそれぞれ行われました。松陰は当初、自身の処分を「国許への送還」か、重くとも「他家預け」ではないかと予想していたようです。しかし、橋本左内頼三樹三郎の死罪が伝わると松陰も「遠島」は免れがたいものと覚悟をしたようです。最終審議は十月十六日に行われました。十六日はそれまでの審議とうって変って奉行たちの態度が非常に厳しいものだったようです。罪状に「下総殿(間部老中)へ旨趣申立て御取用ひ之れなき節は差違へ申すべく、警護人数相支へ候はば切払ひ候て御輿へ近づき申すべく」と老中要撃の文言が書き込まれていたことにより、松陰はこれに対して強い異議申し立てを行ったようで、松陰の罪状は「公儀に対し不敬の至り」と改められました。松陰への判決は死罪。これには大老井伊直弼の意向があったともいわれています。判決ののち、十月二十五日に遺稿である『留魂録』を書き始め、翌二十六日夕方に完成させました。安政六年十月二十七日四つ時(午前十時頃)、吉田松陰は伝馬町牢屋敷にて斬首されました。享年三十。その最期は堂々としていたとも、悔しさで多少取り乱したとも伝わっています。(海原 徹氏『吉田松陰』、ミネルヴァ書房、二〇〇三年。)

松陰が奉行所で詮議を受けている頃、覚馬と妻・うらの間に長女が誕生しますが早くに亡くなってしまったようです。 山川与七郎改め大蔵(おおくら)も印象深いですね。
明けて万延元(一八六〇)年一月十九日、日米修好通商条約批准書交換のため(練習船として)勝海舟を乗せた咸臨丸が浦賀を出港。

そして万延元年三月三日、大老井伊直弼桜田門で水戸系浪士に襲われ殺害されるという、いわゆる「桜田門外の変」が起こりました。容保は「桜田門外の変」の報を受けると急ぎ出府し、水戸徳川家彦根井伊家の間の周旋に尽力するのでした・・・。