「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第4話 感想

「八重の桜」第四話。「妖霊星」。お話の時期は(時間軸がずれていますが、前回よりさかのぼって)山本覚馬の「禁足処分」が解かれた安政五(一八五八)年二月頃から「安政の大獄」開始直後の安政六年五月頃までのようです。八重十四歳〜十五歳。劇中、西郷頼母の尽力によって覚馬の「禁足」が解除されたのは安政五年二月であるかのような描写がなされましたが、実際には万延元(一八六〇)年から文久元(一八六一)年のことであるようです。また、大坂の緒方洪庵のもとで修行を重ねていた古川春英が川崎正之助とともに蘭学所の教授方に採用されたようですが、前回解説した蘭学所の「人事騒動」のあおりをうけて、会津松平家を「出奔」しています(あさくらゆう氏『川崎尚之助と八重』、知道出版,二〇一二年。)
江戸政局では井伊直弼が活躍していました。彦根井伊家十一代当主・直中(なおなか)の十四男として生まれた直弼は、弘化三(一八四六)年に実兄で十二代当主の直亮(なおあき)の養子となり、嘉永三(一八五〇)年には井伊家当主に就任。そして安政五(一八五八)年の四月二十三日には大老になります。彦根井伊家は会津松平家とともに溜之間詰大名で公儀(幕府)の元老的役職でした。井伊直弼大老に就任した頃、いわゆる「将軍継嗣問題」が起こり、慶喜が実父斉昭・尾張徳川家当主慶恕(よしくみ=慶勝)・越前福井松平家当主慶永(春嶽)・薩摩島津家当主斉彬らに時期将軍候補に推挙されます。これに対し直弼は紀州徳川慶福を推挙します。これは十三代将軍家定が三十歳を過ぎても跡継ぎが出来ず、また病弱であるとも暗愚であるともいわれたため、新たなる将軍擁立が急がれたことから起きた騒動であった。八代将軍吉宗以来、「紀州系」を「正統」とする伝統が築かれていたが、慶喜を擁立した「一橋派」の構成員にも父・斉昭のほかに御三卿・田安家出身で十一代将軍家斉の甥である慶永や斉昭の甥である慶勝、家斉の二十二男である阿波徳島蜂須賀家当主・斉裕、家定の正妻・篤姫の養父であった斉彬など、徳川将軍家の血縁者が多かったため将軍家の血脈を背景にして「南紀派」に対抗することが出来たのです。ハリスが日米修好通商条約を締結するため江戸へやって来たことと相まって、将軍継嗣問題は紛糾しました。安政五年六月十九日、日米修好通商条約締結。この条約は朝廷に勅許を得ていない「無勅許条約」でした。この事態を受けて、慶喜は六月二十三日大老井伊直弼を詰問(翌二十四日には斉昭、慶永、慶勝らが井伊を訪れる)。この慶喜らの井伊を詰問した行為が「不時登城」とみなされ翌年(安政六 一八五九年)八月二十七日には幕府より隠居謹慎の命がくだされます(慶喜が隠居する前年の七月六日には家定が死去。七月十五日には島津斉彬コレラで死去。 十月二十五日には慶福が家茂と名を改め第十四代将軍に就任)。慶喜が隠居謹慎を命じられたことは「一橋派」の完全なる敗北でした。さらには八月八日幕府批判をした勅諚が(幕府を通り越して)水戸徳川家に直接下ります(戊午の密勅)。そして安政五年九月七日、梅田梅浜が捕縛され「安政の大獄」が始まるのです。八重たちはそのさなか「妖霊星」をみたのでしょう。安政六年五月には松陰にも江戸からの呼び出しが来るのでした・・・。

参考文献:藤田英昭氏「安政の大獄」(『幕末大全 上』 学研、二〇〇四年)
     小林哲也徳川慶喜の血脈と江戸帰還の関係性」(『歴史読本 二〇一三年三月号』)