「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第3話 感想

「八重の桜」第三話。「蹴散らして前へ」。お話の時期は(ドラマのテロップでは安政四<一八五七>年春となっていましたが、)おそらく会津蘭学所が設置された安政六(一八五九)年頃から覚馬が禁足処分を受けた万延元(一八六〇)年頃まで、が良いのではないでしょうか。年代に少しズレがありますが・・・。八重十五歳〜十六歳くらいでしょうか。会津で着々と「蘭学所」設置の準備を進める覚馬。ドラマでは、会津に「蘭学所」はそぐわないと周囲の人々が反対をしている描写がありました。実際にはそのような反対意見ばかりではなかったようです。会津松平家では、藩校「日新館」に天文台を設け蘭学の足がかりとし、積極的に蘭学を取り入れようとしていました。会津松平家家臣である野村 監物(のむら けんもつ)は熱心な主導者の一人でした。その甲斐もあり、会津松平家蘭学所は当初会津江戸上屋敷のある芝に設けられ、安政六(一八五九)年六月二十八日にようやく会津にも蘭学所が設けられたのでした。蘭学所所長は野村監物、覚馬は南摩八之丞(なんま はちのじょう)とともに蘭学所教授に任じられました。そして覚馬の依頼により川崎 正之助(かわさき しょうのすけ 当時は「正」の字を用いていました)がやってきました。正之助は山本家の食客になりながら、蘭学所教授として会津で働き始めたのです。万延元(一八六〇)年になると、会津松平家では「学校改革」に着手。それに伴い蘭学所から砲術部門を分離します。覚馬と正之助はその砲術部門に異動したようです。この覚馬たちの人事異動には、覚馬に反感を持つ者たちの思惑が絡んでいたようです。実は覚馬は蘭学所の設立以来、火縄銃を使用した旧来の軍事調練の廃止を主張していたのです。この主張は古くからの方式を重んずる守旧派砲術家たちの強い反発を招いたようです。覚馬は人事異動(というより「騒動」)の責任を負わされ「藩庁」より一年間の「禁足」を命じられるのです。今回のお話に繋がるわけです。また、覚馬が槍を振るうシーンがありましたが、覚馬は槍術に関しては「奥義」に達したといわれるほどの名手だったそうです。

参考文献(あさくらゆう氏『川崎尚之助と八重』、知道出版,二〇一二年。)

覚馬が会津蘭学所を設立しようと尽力していた頃、師である佐久間象山吉田松陰の「密航」に連座し信州松代に護送され、(安政地震の影響もあり)、家老・望月主水(もちづきもんど)の別邸を借り受け「聚遠楼(しゅうえんろう)」と名付け詩作に耽っていました。

禁足処分を命じられた覚馬でしたが、八重の周辺には高木時尾や山川二葉や与七郎など、会津松平家家臣では西郷頼母萱野権兵衛らの重要人物が続々と登場し始めました。
劇中では、徳川家定とハリスの会見、今後、会津松平家と密接に関係するであろう、一橋慶喜についても描かれていました。とはいえ、八重さんの周りはまだまだのどかな気がします。
会津松平家が「活躍」するのはまだ先の話なのですから・・・。