「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第2話 感想

「八重の桜」第二話。「やむにやまれぬ心」。お話の時期は嘉永七(一八五四)年三月に「日米和親条約」が締結されてから安政三(一八五六)年に山本覚馬会津に帰郷するまで。八重十歳〜十二歳頃。八重は夜中、密かにゲベール銃の練習をしている所を父・権八にみつかり咎められてしまいます。それでも八重のなかにある「鉄砲」に対する「やむにやまれぬ心」、それが丁寧に描かれています。八重の心が鉄砲に魅了されている頃―嘉永七(一八五四)年三月三日、公儀(幕府)とアメリカの間で「日米和親条約」が締結されました。この「日米和親条約」ではアメリカに物資を補給するために下田、函館を開港すること。(第二條) 漂流民の救助、引き渡し。(第三條) アメリカ人居留地を下田に設定する。(第五條) 片務的最恵国待遇(第九條)などが取り決められました。日米和親条約の際、ペリーが横浜応接所において、佐久間象山をみかけその迫力に思わず会釈をした、というエピソードが残っています。佐久間象山が江戸木挽町五丁目(現在の東京都中央区)に砲術の塾を構えたのは嘉永四(一八五一)年五月二十八日のことでした。象山塾には、(在籍した時期は異なりますが)覚馬をはじめ、吉田松陰小林虎三郎橋本左内河井継之助坂本龍馬などが門下生として名を連ねていました。象山塾の詳細はよくわかりません。また、覚馬と川崎尚之助は象山塾で出会い友情を育んだかのように描かれていましたが、米沢出身の医師・大木忠益の塾で出会ったというのが真相のようです。(あさくらゆう氏『川崎尚之助と八重』、知道出版,二〇一二年。)
「黒豚騒動(!?)」で上州安中板倉家家臣・新島民治(にいじま たみじ)の子、七五三太(しめた)君が象山塾に迷い込んできました。七五三太君は天保十四(一八四三)年の生まれなのでこの時十二歳。彼について覚えておいてもいいかもしれません。西郷隆盛は象山に面会したのでしょうか。嘉永七(一八五四)年三月二十八日、吉田松陰がペリー艦隊への「密航」を企てます(「下田踏海」)。この「密航」は結局未遂に終わり、松陰は萩に送り返されます。象山も松陰の密航に協力したかどで信州松代に護送されます。なお、この「密航」は松陰がペリー殺害を実行するため企てたものだともいわれています。
同じ頃(安政元<一八五四>年五月)容保の義姉である照姫が豊前中津奥平家当主・昌服に離縁され会津松平家に戻ってきます。敏姫は、(若くして亡くなりますが)後に容保の妻になります。安政三(一八五六)年覚馬が会津に戻ってきます。山本家に戻ってきた覚馬は八重の「やむにやまれぬ心」に心を打たれ、ゲベール銃の手ほどきをするのでした。