「八重の桜」を愛でる つれづれなるままに 第1話 感想

「八重の桜」第一話。「ならぬことはならぬ」。お話の時期は嘉永四(一八五一)年二月に松平容保が初めて会津に赴いてから嘉永七(一八五四)年、ペリーが再び来航するまで。いよいよ「八重の桜」が始まりました。この物語の主人公である山本(新島)八重は、弘化二年(一八四五)に父・権八、母・佐久の娘として生まれました。(八重の第一話の時の年齢は七〜十歳。)兄の覚馬とは一八歳差、弟の三郎とは三歳差でした。八重の生まれ育った山本家は、上級武士のなかでも下級に属する家ではありましたが、代々、会津松平家高島流砲術師範を務めるという家柄でした。八重が「銃」に関心を抱いたのもこのような山本家の背景があったからなのでしょう。物語の冒頭には、「南北戦争」のシーンが出てきました。これは八重も戦った「会津戦争」と重ね合わせてのものでしょう。日本では、一八四〇年代の後半から高島流西洋砲術が流行り始め、主にゲベール銃が使用されていましたが、一八六〇年代になると日本では新式のライフル銃が使われ始めます。南北戦争戊辰戦争は銃器の変革期に起こった戦争だったといえるでしょう。それにしても、戦う「綾瀬」八重いいですねえ。

嘉永四年、会津松平家第九代当主・容保が会津に入国。容保は天保六(一八三五)年の生まれですから、この時十七歳でした。実は、容保は会津の生まれではなく、尾張徳川家の分家であった美濃高須松平家第十代当主・義健(よしたつ)の六男でした。容保の養父である会津松平家第八代当主、松平容敬(かたたか)は義健の弟であり、この二人は水戸徳川家の血を引いていました。つまり容敬と容保は実の叔父と甥の関係であったのです。このあたりの系譜は複雑です。容保は嘉永四年の五月に会津に赴いてから、会津の法である「御家訓(ごかきん)」に耳を傾け、藩校・「日新館」では家臣子弟の「掟」である「什の訓え」を知り、さらには軍事教練である「追鳥狩」を行うなど精力的に領内を視察します。
「御家訓」と「什の訓え」は幕末会津を考えるうえで重要なので原文を掲げます。
・原文
御家訓
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず

一、兄をうやまい、弟を愛すべし

一、婦人女子の言 一切聞くべからず

一、主をおもんじ、法を畏るべし

一、家中は風儀をはげむべし

一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず

一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず

一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
  口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず

一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
  もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。

一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。

一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
  評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
  思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし 
  はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず

一、法を犯すものは ゆるす べからず

一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり 
  歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず

一、若し志をうしない 
  遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
  すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし

  右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
  寛文八年戊申四月十一日

この「御家訓」が容保の行動を強く規定したことはまちがいないでしょう。

続いて「什の訓え」

・原文
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

「ならぬことはならぬもの」だという一言も「日新館」の子どもたちに強く響いたことでしょう。
「追鳥狩」で八重が粗相を起こしたのはストーリーを面白くするためのフィクションでしょう。
また、この「追鳥狩」の時に八重の兄の覚馬だけではなく西郷頼母佐川官兵衛など、容保をささえる家臣が登場していることは注目してよいでしょう。
嘉永五年一月二九日から東北地方遊歴の途中であった吉田松陰は二月六日、日新館を訪れています。松陰は日新館の教育水準の高さに感動したことを記録に残しています。
嘉永六年会津松平家は品川第二台場の警備を命じられます。それに伴い、覚馬は勝海舟らとともに、佐久間象山塾に入門します。象山にナポレオンの言及をさせたのは面白いと思いました。嘉永七(一八五四)年一月ペリーが再び来航します。これを受けて江戸城溜間(たまりのま)詰大名(会津藩松平家彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家)は「開国やむなし」との決定を下しました。先の「御家訓」とともに溜間詰大名の当主であったことが後に容保に過酷な運命を強いることになるのです・・・。
そんなことになろうとは予想だにせず、覚馬は「黒船」に、八重は「鉄砲」に魅了されていたのでした・・・。