書評 『写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断』

本書『写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断』は、二〇〇九年八月二十三日に放送された「幕末 知られざる決断 尾張藩主・徳川慶勝」というテレビ番組をもとにして編まれている。本書の主人公ともいうべき徳川慶勝は幕末期の尾張徳川家の当主であり、元治元(一八六四)年の長州毛利家「征討」の総督として著名な人物である(総督就任時、慶勝四一歳)。本書はその慶勝の個性に、「政治家・徳川慶勝」 「殿様・徳川慶勝」 「写真家・徳川慶勝」の三部構成で迫っていく。執筆者は徳川林政史研究所徳川美術館の研究員の面々。いずれも徳川慶勝研究・明治維新史研究のプロフェッショナルである。本書はまた、番組を中心にまとめられた「概説」・徳川林政史研究所所長、竹内誠氏と漫画家、黒鉄ヒロシ氏の「特別対談」・慶勝に関するテーマコラムで構成されており、どこを切り取っても人間・徳川慶勝を味わいつくせるつくりになっている。徳川慶勝は、文政七(一八二四)年、尾張徳川家分家・美濃高須松平家当主、松平義健(まつだいらよしたつ)の息子として生を受けた。慶勝の兄弟には、のちに尾張家当主となり一橋家を継ぐ徳川茂徳(もちなが)、会津松平家を継ぎ、京都守護職を務める松平容保、桑名松平家を継ぎ、京都所司代を務める松平定敬がいる。この四者を「高須四兄弟」という。慶勝を語る上で彼の出自は見逃せないであろう。慶勝が尾張徳川家を相続したのが嘉永二(一八四九)年二六歳の時。家臣団に待ち望まれての尾張徳川家当主就任であった。嘉永四(一八五一)年より、慶勝は尾張の軍事教練に着手。嘉永六(一八五三)年にはペリーが来航した。アメリカの条約締結要求に慶勝は(日本の軍備が強化されていないため)、今は「開国」は「時期尚早」であると感じていたようである。また、慶勝は松平春嶽徳川斉昭と交流を持ち、条約締結と時を同じくして起きた将軍継嗣問題では十三代将軍家定の後継として従兄弟である慶喜を支援したが「安政の大獄」に連座し、慶勝も蟄居、謹慎する。この慶勝三十五歳。慶勝が本格的に「政界復帰」を果たしたのは文久三(一八六三)年に御所参内以降のことである。翌元治元(一八六四)年には当時、最大の政治問題となっていた「長州問題」解決のため、慶勝は「長州征討総督」に「就任」(させられる)。征討軍を結成したものの、あまりに動きの鈍い慶勝を「総督殿は芋によった」と慶喜は苛立ちをみせる。しかし、慶勝は「芋に酔った」わけではなく「寛厚之御処置」(かんこうのごしょち)―全権委任を狙っていたのである。しかしこの慶勝の想いをよそに徳川の時代は終わりをつげる。来たるべき新しい時代に対応するため、慶勝は徳川寄りの家臣団を処刑(青松葉事件)。この事件の真相は今も謎のままである。慶勝はこの時、東海道の諸所を「尊王方」につくよう工作をしている。慶勝は新しい維新政権で「議定」に就任するも、戊辰戦争では弟である松平容保松平定敬と相争うことになった。この時慶勝、四十五歳。戊辰戦争より十一年後の明治十一(一八七八)年九月には高須四兄弟の集合写真が撮影されている。一瞬四人ばらばらの方向を向いているようにみえるが、しっかりお互いを支えあっている「絆」を感じるかのような趣深い写真である。写真撮影時、慶勝五十五歳。慶勝は明治十年代より旧家臣団に北海道開拓に従事させている。徳川慶勝は明治十六年(一八八三)年八月死去。享年六〇歳。
 
 タイトルの「写真大名」という言葉が表すように慶勝は生涯に実に多くの写真を撮影した。本書にも多くの写真が収録されている。本書は慶勝の蔵書、浮世絵コレクション、標本などからも慶勝の「人となり」が感じられるよう工夫されている。会津鶴ヶ城の写真に慟哭し、自分のカメラに写る民衆に優しい笑みをたたえている―そんな慶勝の姿を想像するのは自分だけだろうか? 尾張徳川家の激動した明治維新に関心のある人に必読の一冊!