論文感想 藤田英昭氏論文 「草莽と維新」を読む

明治維新史学会編『講座 明治維新3 維新政権の創設』(編集 松尾正人氏・佐々木克氏)所収の藤田英昭氏の論文「草莽と維新」を非常に楽しく読んだ。

論文の筆者である藤田英昭氏は、幕末維新史を「徳川家」の立場から、今まで知られていなかった史料を使いながら研究している方。

この「草莽と維新」に出てくる「草莽」(そうもう)とは「叢(くさむら)―在野にいる、国家に忠誠を誓っている者」という意味である。身分としては浪士や郷士博徒・神主・農民・学者・豪商などなどバラエティに富んでいる。いわゆる「志士」と呼ばれる人々のことだ(志士という言葉で吉田松陰久坂玄瑞、あるいは坂本龍馬中岡慎太郎などを思い浮かべる人も多いだろう)。

また、ここでの「草莽」は(時代の安定期には)権力に対して忠誠心を示し「無欲」でありながらも(時代の激動期には)身分の向上を目指しながら国事に関与してゆく、そのような存在である―と定義されている。

藤田氏は吉田松陰の唱えた「草莽掘起論」(草莽の者たちが国のために立ち上がり行動を起こす) が久坂玄瑞によって受け継がれ、さらには土佐の坂本龍馬武市半平太という土佐の人々にも影響を与えたというエピソードから「草莽」論を説き起こす。幕末を言い表す概念として「尊王攘夷」というキーワードがある。この「尊王攘夷」をめぐって時勢が動いてゆく。「尊王攘夷」という言葉は時期・地域によって意味合いの異なる難しい言葉ではあるが、孝明天皇の意思に則って「攘夷」を行なう、これが「草莽」たちの究極の目的であった。万延元(1860)年に起こった「桜田門外の変」でさえも公儀(幕府)への敵対が目的ではなく井伊直弼を取り除くことによって、幕府の政治を正しいものとし全国を挙げた「尊王攘夷」の実現することを意図した―「草莽」の幕政への「期待感」があらわれたものだといえるだろう。そしてその「期待感」はとりもなおさず、井伊直弼を殺害した水戸藩への「期待感」に直結し、その「期待感」は全国規模の(水戸藩を中心とした)盛んな「情勢分析」という行動に繋がった。関東・多摩地域では土方歳三・小島鹿之助・小仏関所の小野崎健次郎・佐藤源三郎・そして小仏関守の家系に生まれた川村恵十郎などがその代表に挙げられる。

上記の川村恵十郎は文久3(1863)年、御三卿一橋家に建白書を提出。そこには「水戸の血筋」としての徳川慶喜への「期待感」があらわれていた。川村恵十郎が一橋家に建白書を提出した文久3(1863)年という時期は文久の幕政の改革が行なわれ、それに伴って新しく出現した「言路洞開(げんろどうかい<身分の高い者に意見を自由に述べること>)」・「公議尊重」路線は全国の「草莽」層に「攘夷」実現の希望と「国事参加」への道を開いた。

幕府が「国事参加」への道を開いたことを契機として多摩の近藤勇と試衛館の一団が「浪士組」の募集に応じる。幕府の浪士組計画の目的は、文久の幕政改革の成果のアピールと「草莽」の暴発・幕政批判を回避することであった。

幕府は浪士(草莽)を来る将軍上洛の際の警護にあたらせることとした。浪士組には近藤勇ら試衛館グループのほか、芹沢鴨が率いる水戸尊攘派・それに「攘夷実行」を迫る長州・土佐などの西国諸士など多くの「草莽」が名を連ねていた。よく知られているように近藤勇ら「浪士組」の一部は会津のお抱えとなる。その会津に召抱えられた「浪士組」のなかには上記のような「攘夷」の実現を迫る西国の「草莽」も含まれていた。後に近藤勇と対立することになる西国浪士も「浪士組」結成当初は「攘夷実行」のために「公武一和」を推進し、(将軍が)「攘夷実行」を確約するまでは、長く京都に滞在すべきである、とする近藤と共通する利害にたっていた。

「浪士組」が京都に着いて程なく、「浪士組」の発案者ともいえる清河八郎近藤勇との間に対立が起こった。(浪士組は幕府の命を受け上京したが)「幕府の制約を受けず」とする清河とあくまで幕府あっての「尊王」であり、体制(幕府)のなかで「攘夷実行」・「公武一和」を遂行すべし、とする近藤勇との対立であった。この対立の結果、「浪士組」の多くは江戸に東帰。清河八郎はその後、幕府の手により暗殺され、大部分は「新徴組」に編成されて江戸市中の警備にあたることとなる。京都に残留した近藤勇は「攘夷」の志を持って発言を行なうなどしたが幕府の上層部を動かすには至らず、その身を体制(幕府)に摂取されたことでその行動を規定されていく。つまり京都守護職の配下―治安維持部隊としてかつては同志であったはずの西国浪士を「反幕活動」を理由に取り締まらざるを得なくなったのである。京都守護職の配下としての近藤勇は、「朝幕協調」・「長州問題」に取り組む有能な「政治家」として顔を持ち合わせていた。これには近藤勇率いる新選組が京都で一勢力を担っていた「一会桑」( いちかいそう  禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮・一橋慶喜京都守護職松平容保会津藩主)、京都所司代松平定敬桑名藩主)3者)の末端に位置づけられたことに関係していよう。また、新選組は時期を負うにつれ次第に同志的「浪士」組織から「官僚」組織へと変化していった。「官僚化」していった新選組はその「秩序」を維持するために自然、隊士を「粛清」せざるを得なくなった。

一方の川村恵十郎は元治元(1864)年、一橋家用人である平岡円四郎の斡旋で上京し一橋家の家臣に取り立てられ、一橋家の人材獲得や朝廷・幕府・諸藩の間の情報収集活動を主たる任務とした。

同年京都で川村恵十郎の恩人である平岡円四郎が水戸家家臣暗殺されるという事件が起こる。川村は顔に傷を負いながらも平岡を殺害したものを切り倒す。顔面に傷を負いながらも恩人の仇を討った川村の「武勇伝」は京の都で人気を博したようである。ちなみに川村の詳細な履歴に関しては藤田氏の 「八王子出身の幕末志士川村恵十郎についての一考察」松尾正人編『近代日本の形成と地域社会‐多摩の政治と文化‐』(岩田書院、2006年)所収
という論文に詳しい。平岡円四郎の死後、川村の任務は渋沢栄一に受け継がれていく。ここに渋沢栄一の「草莽」活動の一端が垣間見見えて興味深い。ともかくも川村恵十郎は、一橋家の家臣であったため一種の制約はあったものの近藤勇に比べて、比較的自由な行動を取りえたようである。

「草莽」層の機動性・柔軟性を見抜き自らも「草莽」と強く結びつき活躍した人物に岩倉具視がいる。岩倉具視は朝廷内の政争のために文久2(1862)年以来、洛北岩倉村に幽閉されていた。岩倉は幽閉状態におかれたことで最新の「政治情報」を遮断され、岩倉自身の行動も否応なく制限されていた。

そんな状況下の岩倉であったが元治2(1865)年に 松尾相永(まつのお すけなが)と藤井九成が岩倉のもとを訪れたことで彼と岩倉周辺の状況が変化してきたのである。岩倉は松尾・藤井両人とつながりを持つことによって、また多くの「草莽―志士」とも強力なネットワークを築くことになった。その志士の多くは松尾・藤井の居住地がある「今出川室町上ルの柳の図子」に出入りしたことから「柳図子党(やなぎのずしとう)」と呼ばれる。その柳図子党のなかに、水戸出身の香川敬三がいた。 

文久3(1863)年まで「攘夷」運動に勤しんでいたが香川敬三は松尾・藤井両人に誘われたことで慶応元(1865)年岩倉の知己を得た。ところで香川には「草莽姓名録」なる史料がある。この「草莽姓名録」は114名の「草莽」の評価・所在地を記したリストである。香川が岩倉に建白したものらしい。「草莽姓名録」の評価には香川自身の(当時これらの草莽をどのようにみていたのかという)「評価」が含まれていて興味深い。

藤田氏も指摘されているように、香川自身の出身である、水戸藩、ついで香川が深い繋がりを持つ土佐藩が多く数を占めるなか勝海舟幕臣がその菜を留めていることは特徴的である。一方で薩摩の人間の名は記されていない。おそらく岩倉はこのリストをもとに「草莽」の活用策を練ったことであろう。なお、この「草莽姓名録」は本文に掲載されている。
面白さを堪能して欲しい。岩倉はこのように「草莽」と交流することによってその存在の大きさを無視し得ないことを痛感したことであろう。

今までみてきたように、一口に「草莽」といっても様々なタイプがある。尾張徳川家のように「藩」の動向を読み取り動いた「草莽隊」もあった。しかし多くの「草莽隊」が戊辰戦争後に解体させられて消えていった。草莽が一時でも時勢に影響を及ぼすことが出来たのはその人間関係によるところが大きいのである。

今回の藤田氏の論文は「草莽―志士」研究の新たな地平をひらいたと思われる。その文章にはどこか志士のエネルギーがこめられているかのような気がした。藤田氏の研究が今後も非常に楽しみである。