<龍馬を語ろう> 第45回 番外編 講座 「中村半次郎(桐野利秋)という男」



2010年6月6日 「中村半次郎桐野利秋)という男」という講座に参加。

講師は歴史研究家の桐野作人先生。明治草創期の陸軍少将で西南戦争西郷隆盛とともに戦い華々しく散った男の半生を史料から読み解くという実証的なお話でした。桐野利秋天保9年(1838年)12月 - 明治10年(1877年)9月24日>は幕末当時の名を「中村半次郎」といい、同じく薩摩の田中 新兵衛 土佐の岡田 以蔵・肥後の河上 彦斎とともに「人斬り半次郎」と称されました。

しかし、桐野利秋中村半次郎は幕末当時、「人斬り」と呼ばれるほど人を殺めてはいません。では中村半次郎は実際、幕末期にどのような「活躍」をしていたのでしょうか。

明治政府に仕官した高官・軍人・官僚や文化人などの経歴を収録した「百官履歴」という史料によると、桐野利秋中村半次郎の姓名の部分には「鹿児島(旧字体)縣(県)士族 元 中村 桐野 坂上(さかのうえ) 利秋 半次郎」とあります。桐野氏の家系は坂上苅田麻呂坂上田村麻呂の父)を遠い先祖に持つとされます。「履歴」に小さく「坂上」とあるのはこのためです。

中村半次郎の先祖といわれる桐野 九郎左衛門(きりの くろうさえもん)は戦国時代、島津家の権力闘争により起きた家老・平田増宗殺害の際討手の押川強兵衛の道案内を命じられ、後、銀子を与えられますが家老殺害負い目もあったためか九郎左衛門の子孫は、代々親戚である「中村」の姓を名乗ったようです。

先の「百官履歴」によると中村半次郎が「桐野」へ改姓したのは明治4(1871)年7月28日に「陸軍少将」に就任したことがきっかけでした。「中村」から「桐野」へと改姓すること、これは桐野利秋中村半次郎にとって念願の「先祖の名誉回復」になったことでしょう。中村半次郎 時に36歳。

薩摩の下級家臣「城下士」中村与右衛門の子として生まれ、明治の世で「陸軍少将」にまで登りつめた桐野利秋中村半次郎は激動の幕末をどのように生き抜いたのでしょうか。

中村半次郎が幕末期、諜報活動に従事していたであろうことが史料の断片から窺い知ることができます。

例えば、元治元(1864)年6月14日付 大久保一蔵宛大島(西郷)吉之助書簡には

中村半次郎の他、園田五助・松田東園なる者に諜報活動をさせ、池田屋事件後の長州の様子を探らせたが、どうも中村ほど他の2人は役に立たないと記し、中村半次郎の「諜報」の能力を高く評価しています。

また同書簡中には、「中村半次郎は暴客(尊攘激派)の中へ入って、長州藩邸にも出入りしているので、長州側の事情はよくわかった」とあり、続けて「本人が長州へ行きたいといっているので、脱藩したことにして探索させたい。本当に脱藩してしまうかもしれないが、帰ってきたら役にたつだろう」とも書いています。

(しかしこれより5日後の6月19日付西郷書簡には「中村半次郎を長州へ行かせたが、藩境でとめられ入国できなかった」とあるのでどうやら「中村半次郎長州潜入作戦」は失敗に終わったようです)

元治元(1864)年11月26日付 大久保一蔵宛小松帯刀書簡には、「中村半次郎が兵庫入塾を願っているのでかなえてやってくれないか」とも書かれていますが、これも実際に行なわれたかどうか不明です。

(海軍操練所で坂本龍馬と同級生!?と考えると想像が膨らみます。)

同年12月中村は水戸天狗党の首領・藤田小四郎・武田 耕雲斎らに面談し、事情聴取を行います。水戸天狗党は水戸の過激攘夷のグループです。事と次第によっては中村自身も藤田・武田ら「天狗党」の仲間に加わろうと考えていたふしがあります。中村と藤田らの話はまとまらず、中村が天狗党に参加することはありませんでしたが、この間の中村の行動を見ていると長州や水戸の過激派に似たものを感じます。

このエピソードは会津藩の公式記録である「会津藩庁記録」に残されています。

幕末から明治維新を生きた人々の談話を多数収録した「史談会速記録」には水戸天狗党の生き残りである川瀬敦文の談話も残されており川瀬も「桐野が天狗党の陣屋までやって来た」と述べています。

このように行動的に「諜報活動」を行なう中村を同志である土佐の土方楠左衛門久元(ひじかたくすざえもんひさもと)はその手記『回天実記』の慶応元(1865)年3月3日条で

中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」

と記しています。中村の存在は新しい国づくりを目指していた人々にとって非常に心強く思えたことでしょう。

そして、中村30歳の慶応3(1867)年9月3日、自身の師でもある信州上田の学者・赤松小三郎を殺害します。中村半次郎生涯ただ一度の「人斬り」でした。 

赤松小三郎は『重訂英国歩兵練法』などの軍学書を作成した全国的に有名な学者でした。慶応3年5月17日には福井の老公・松平春嶽に「御改正之一二端奉申上候口上書」という建白書を提出し議会制度を説いています。これは坂本龍馬の「船中八策」のモデルになったといわれています。全国的に有名な赤松からは国許上田への償還命令が何度も届きます。

「このまま京都で活躍したい」との希望を持つ赤松に援助を申し出たのは会津藩でした。

この状況に困惑したのは他ならぬ薩摩でした。赤松には薩摩の教え子も多く、反会津の色を強めていた薩摩の情報が会津に漏れては困るわけです。そこで中村が赤松を殺害したわけです。中村は自身の日記に「幕奸」だから斬ったと記しています。

弟子が師を手にかける、中村にとっても後味が悪かったでしょう。

(※慶応元年<1865>3月10日 内田仲之助書簡によると、中村の「川畑某」殺害の関与したことが仄めかされていますが真偽のほどは定かではありません)

慶応3(1867)年11月15日 坂本龍馬中岡慎太郎が殺害されると中村も犯人捜索に尽力しました。坂本龍馬中岡慎太郎殺害に関して「中村半次郎犯人説」がありますが「的外れ」といわざるをえません。

翌慶応4(1868)年の「鳥羽・伏見の戦い」では「黒毛の兜をかぶり周りにいる人々を圧倒した」と「史談会速記録」にあります。

明治元(1868)年9月22日 中村は会津城の受け取りに臨み、会津の旧当主松平容保の立派な姿をみて「男泣きに泣いた」とイギリス外交官であるアーネスト サトウが記録に残しています。

時代は移り「明治」の世となり、明治4年7月28日 陸軍少将に就任しますが、同6年10月には「征韓論政変」で下野。中村(桐野)たちは東京から薩摩に戻ります。

明治10年2月より始まった「西南戦争」では桐野も4番大隊を率い従軍。

西南戦争」は明治10年9月24日 西郷隆盛の死を以て終わりを告げます。桐野も西郷の死を見届けた後、後を追うかのように壮絶な戦死を遂げます。 享年40。

幕末の中村半次郎の活躍が史料を通してもっと明らかになれば豊かな幕末維新像が描けるのではないか、そんな風に感じた講座でした。