<龍馬を語ろう> 第44回 番外編 <龍馬伝>と史実の違い―「龍馬伝」25話までをみておもうこと

「福山竜馬」と「史実の龍馬」は大きく異なります。劇中の設定では「戦からは何も生まれん」と「平和主義」を貫いていましたが、実際の「龍馬」は後年、新しい政治体制を築くため、薩摩・長州・土佐・宇和島などに銃器を運ぶ仕事をしています。龍馬は「国事周旋」をする「政治家」であり、「単なる平和主義者」ではありません。有名な「世界の海援隊」のエピソード

大政奉還後龍馬は新政府の大綱である「新官制擬定書」を作成した。これには関白を三条実美慶喜を副関白とし、参議として薩の西郷・大久保・小松帯刀、長の木戸孝允、土佐の後藤の名があったが、龍馬の名はどこにもなかった。怪訝に思った西郷がこれについて問うと、龍馬は「ワシは堅苦しい役人などしません。左様さ…世界の海援隊でもやりましょうかな」と一言残しただけだった・・・>

も後年の創作の可能性があり、新政府の閣僚名簿草案の史料には「坂本」と名前があります。

子どものころの龍馬については「愚鈍」とされてきましたが、最近では「西洋に憧れを持った」少年であったともいわれています。岩崎弥太郎とは幼馴染ではありません。龍馬が海援隊長を務めたとき、その会計係を勤めたのが岩崎です。

海援隊」の前身「亀山社中」を設立した龍馬ですが、その影に薩摩家老・小松帯刀の尽力があったことを忘れてはならないでしょう。

龍馬伝」では、吉田東洋がしきりに龍馬をスカウトし、それに嫉妬した後藤象二郎が龍馬「毒殺」を岩崎に命じますがこれはまるまるフィクションです。龍馬が「脱藩」を決意したのは武市半平太と別行動をとるためだったでしょう。ただし2人は「仲たがい」をしたわけではなく、龍馬は武市をはじめ他の勤王党員協力を得ての江戸に向かい勝海舟に出会います。海舟と出会った場所は赤坂とも大坂ともまた神戸ともいわれ、喧嘩ではなく、きちんとした面談でしょう。勝塾の運営は佐藤与之助が「内政」を補佐し、龍馬は「外交・交渉」面から海舟を支えています。龍馬は「勝塾」で学習中も、劇中のように大阪・神戸にじっとしているようなことはなく、横井小楠松平春嶽大久保一翁などの要人に次々と面談し、忙しく動き回っています。また小千葉道場でさな子さんに少しそっけない龍馬ですが、実際には龍馬は姉・乙女にさな子を紹介する手紙を書き送るほど「ベタぼれ」で龍馬とさな子は結婚の約束まで交わしていました。

龍馬と吉田松陰が江戸で出会ったというのもフィクションです。龍馬と桂 小五郎も「黒船来航」の時期に出会っていたか 怪しいところです。

「黒船来航の衝撃」を姉・乙女に報じますが、乙女に諭され、「そうじゃあの手紙は嘘じゃ」というシーン自体がフィクションであり「嘘」です。

龍馬以外の人物造形にもフィクションが盛り込まれています。武市はあんなに心の狭い人物ではなく、正々堂々と主張をする人物でした。「白札」という上士に準ずる身分ですから吉田東洋が足蹴にすることなどなかったでしょう。はじめから東洋暗殺ありきではなく、現状打破・反東洋派からの突き上げなど、様々な状況が重なっての「東洋暗殺」でした。


岡田以蔵も劇中では純粋無垢な青年として描かれていますが史料には「粗く酒色を好んだ」が、また「剛勇で武技を好み、非常に逞しい体躯を持った巨漢」であったと記録されています。

殺害された吉田東洋にしてもただの傲慢な人物ではなく、土佐の富国のため藩政改革に尽くした立派な人物でした。

老公・山内容堂は幕末の京都政局では「四賢候」に数えられ徳川が存亡の危機に陥った際にも大政奉還を推進し「親徳川」を貫きました。 「龍馬伝」初登場が27歳の設定なので、あの若白髪はありえないと思います。

長州の久坂玄瑞。彼は高杉晋作とともに吉田松陰門下の「双璧」と称された人物です。

見識ある人物で各国志士のリーダー格でした。学問もあり、劇中のように単純な激情型のではありません。長州が率兵上京し勃発した「禁門の変」でも久坂は最後まで反対でした。

と25回までの史実と龍馬伝の違いはこんなところでしょうか。

最近の幕末研究では「倒幕」の定義もさまざまで揺らいでいます。

龍馬伝」では「倒幕」や「龍馬の夢」はどのように描かれていくのでしょうか?

楽しみですね。