<龍馬を語ろう> 第39回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第21話・感想



龍馬伝」第21話。お話の進行時期は文久3(1863)年6月〜9月。収二郎の死を報じた加尾の手紙を受け取り、悲しみに暮れながらも、佐藤与之助の指導の下、大坂で「海軍修行」に励む龍馬。姉・乙女に宛てた文久3年6月29日付の付(つけたり 追伸部分)で、「収二郎の死」に触れているので京・大坂あたりで平井収二郎間崎哲馬・弘瀬健太の切腹は大きなニュースとなっていたのではないでしょうか。

文久3年6月からの龍馬は劇中と異なりどこか前向きな「明るさ」が漂っている気がします。6月初旬には勝塾生で土佐出身の廣井磐之助(ひろい いわのすけ)の仇討ちを援助。(6月2日)また同じ頃、同じく勝塾の乾十郎(いぬい じゅうろう)なる人物の仇討ちにも力を貸しています。

「仇討騒動」も一段落して落ち着いた気持ちになったのでしょうか、6月14日には姉・乙女に宛てて小千葉道場の千葉佐那子を紹介する手紙を書き、翌々日の16日には、自分が弟のように可愛がっていた池 内蔵太(いけ くらた)が「出奔(脱藩)」したことを受けて、その家族に内蔵太の行動を理解するようにとの諌めの手紙を書いています。手紙文中の

「朝廷というものハ国よりも父母よりも大事にせんならんというハきまりものなり」という文言は内蔵太の心情を代弁しつつ、龍馬自身の心情を表したものと思われます。

6月26日には長州藩士より、幕閣・小笠原長行(おがさわらながみち)を襲撃しようと龍馬たち勝塾生に打診がありますが、龍馬たちはこれを拒否。

そして3日後の6月29日には姉・乙女に宛てて「日本のせんたく」の文言で有名な長文の手紙を書きます。

文久3年6月29日付 姉・乙女宛 龍馬の手紙抜粋

この文は極大事の事ばかりニて、けしてべちや〜シヤベクリにハ、ホヽヲホヽヲいややの、けして見せられるぞへ

六月廿日あまりいくかゝけふのひハ忘れたり。一筆さしあげ申候。先日杉の方より御書拝見仕候。ありがたし。

私事も、此せつハよほどめをいだし、一大藩(ひとつのをゝきな大名)によく〜心中を見込てたのみにせられ、今何事かでき候得バ、二三百人斗は私し預候得バ、人数きまゝにつかひ申侯よふ相成、金子などハ少し入よふなれバ、十、廿両の事は誠に心やすくでき申候。然ニ誠になげくべき事ハながとの国に軍(ユクサ)初り、後月より六度の戦に日本甚(ハナハダ)利すくなく、あきれはてたる事ハ、其長州でたゝかいたる船を江戸でしふくいたし又長州でたゝかい申候。是皆姦吏(カンリ)の夷人(イジン)と内通(ナイツウ)いたし侯ものニて候。右の姦吏などハよほど勢もこれあり、大勢ニて侯へども、龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本(タイホン)をたて、夫より江戸の同志、はたもと大名其余段々と心を合セ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本(ニッポン)を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願(ガン/ネガイ)ニて候。此思付を大藩にもすこむる同意して、使者(シシャ)を内(ナイ)々下サル事両度。然ニ龍馬すこしもつかへをもとめず。実に天下に人ぶつのなき事これを以てしるべく、なげくべし。・・・(中略)


この手紙はすごく大事なことばかりを書いているので、決してべちゃくちゃしゃべったり、ホオウホオウいややなどと言って人に見せてはいけないよ。

今日が六月二十日だったか何日だったか、忘れてしまいました。一筆さしあげます。先日杉の方からお手紙拝見させてもらいました。ありがたいことです。私もこの頃はうんと芽が出てくるほど順調で、とある大きな藩の大名によくよく心意気を見込まれ、頼みにされ、今何か事が起きれば、二百、三百人くらいを私が預かることができるようになり、人を思うように自由に使える立場になり、金などが必要な時も、十両や二十両くらいのことなら、気遣い無く出せるようになりました。

ところが、誠に嘆かわしい(残念な)事には、長門の国(長州)で戦争が始まりまして先月(=五月)から六度の戦いに、日本は勝ち目がなく(利が無く)、呆れる事には、長州で戦った(外国の)船を江戸(幕府)で修理して、また長州で戦わせているということです。これらはみな、悪辣な幕府の役人どもが、外国人と内通しているものです。こうした悪役人たちは、よほど勢いもあり、大きな勢力ですが、龍馬は二、三の大名と、固く約束し、同志を募り、朝廷もまず神の国を守るという大方針を立て、江戸の同志、旗本・大名やそのほかの者たちと段々と心を合わせて行き、こういった幕府の悪役人たちと戦って撃ち殺し、この日本を今一度洗濯しなければならないと思い(日本を今一度洗濯してやろうと思い)祈願しております。この思いに大藩も大いに同意し、私宛の使者を内々に二度も下されました。しかし、龍馬はお仕えする事なぞはなく、お断りしました。よほど今の世の中に優れた人物がいないことはまことに嘆かわしいことです・・・

手紙の中で触れているように龍馬は長州「攘夷派」には比較的同情的でした。7月1日には近藤長次郎と共に京都福井藩邸をたずね村田巳三郎に面談し、「長州砲撃」以後の局面について議論をし「長州討つべし」とする最終的に「挙国一致」して日本の方向を定めるよう尽力するという結論に落ち着いたようです。

<薩摩ではこの7月2日〜4日まで、前年の生麦事件の報復行動としてイギリス艦隊が鹿児島市内を砲撃するという事件(「薩英戦争」)が起きています。>

一方京都では孝明天皇の意を汲み、「攘夷」を掲げた長州が政治を行なっていましたが、幕府をないがしろにし、窮地に陥れる行き過ぎた政策を採ったため御所の警備を解かれ、幕府との協調政策を採っていた薩摩・会津の連合に、過激攘夷派の公家ともども追放されるという事件が起きました。文久3年8月18日―8・18クーデター(文久政変)・七卿落ちです

文久政変をまだ知らないであろう龍馬は翌8月19日に勤王党同志で縁戚の川原塚茂太郎に宛てて、何卒「養子のつがふ(都合)」を整えてください、と依頼をした手紙を書きます。

攘夷派の勢いを失わせた文久政変の余波はすぐに土佐にまでひろがり幕府寄りの政策を採っていた老公・山内容堂は、9月21日攘夷派をとりまとめていた武市半平太を捕縛し入牢を命じます。

「武市未亡人の談」という史料で妻・富子は半平太が「おまえに話しておかねばならぬことがある私は直にアガリヤ(牢屋)入りを命ぜられるだろう」と妻・富子に言った。果たして朝9時ごろ6人の役人がやって来た。役人たちが半平太と世間話に興じていたので、「もしかしたら主人は捕縛されずに済むかもしれない」と考えていると駕籠が呼ばれ、半平太は連れて行かれてしまった。私はその場で突っ伏して泣いた

という意味のことを語り残しています。約2年におよぶ半平太と勤王党の「闘争の日々」の始まりでした・・・。