<龍馬を語ろう> 第51回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第30話・感想

龍馬伝」第30話。「龍馬の秘策」。お話の時期は慶応元(1865)年閏5月前後でしょうか。龍馬31歳。

なかなか薩摩へ向かわない龍馬たち。史実では慶応元年の5月1日にはすでに薩摩に到着しています。第26話の「西郷 吉之助」あたりから今回までストーリー的にも時間軸的にも無理があるように思います。

冒頭、長州藩の内訌(ないこう)の描写がありました。元治元(1864)年当時の長州藩は、「長州征討」を進める幕府に反感を強め、武装してでも幕府を迎え撃つべきだとする「正義派」(武備恭順派)と今は幕府に恭順すべし、とする「俗論派」(恭順派)に分裂し対立を深めていました。「英米仏蘭の4カ国砲撃」と「第1次長州戦争」の影響を受け、幕府への恭順論を主張する「俗論派」が藩内での発言権を強めていました。発言権を増した「俗論派」は「正義派」を退けようとの思惑からリーダー格である周布政之助(すふまさのすけ)を切腹に追い込むなどの実力行使に及んでいました。そんななか高杉晋作は「俗論派」の攻撃の手から逃れようと福岡に亡命。時節が到来するのを待ちました。

そして元治元年12月15日、高杉晋作伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊とともに下関の功山寺(こうざんじ)で挙兵。下関新地会所を襲撃し占拠しました。翌慶応元年1月7日〜16日まで続く「大田・絵堂の戦い」で高杉晋作は「俗論派」と対決し、これを撃破。閏5月には「俗論派」のリーダー格であった椋梨藤太(むくなし とうた)が処刑され長州藩論は「武備恭順策」に統一されました。高杉晋作時に27歳。高杉は慶応元年閏5月には長崎には立ち寄っていないようです。したがって龍馬と高杉が議論をするシーンはフィクションでしょう。

長崎の小曾根邸で仲間たちと議論している龍馬。そこへ突然、池 内蔵太(いけ くらた)が現われます。龍馬は内蔵太を弟のようにかわいがっており、内蔵太の家族にも3通もの長文の手紙を書き送っています。その3通の手紙は龍馬の本音が表れているともいわれています。

内蔵太は土佐勤王党の結成に深く関わり、文久3(1863)年 23歳の時に「脱藩」し、長州に亡命。慶応元年5月に龍馬と出会うまで、「長州の戦士」として戦い抜きます。

(劇中、内蔵太が身体の傷を「これは天誅組の大和挙兵に加わった時の傷!」と仲間に誇るシーンがありましたが、「龍馬伝」では「天誅組の大和挙兵」のシーンもありませんでしたし「天誅組の大和挙兵」の説明すらされていません。)

龍馬は慶応元年5月、内蔵太と出会った時のことを慶応元年9月9日付の内蔵太の家族宛の手紙で回想しています。

原文

時々の事ハ外よりも御聞被遊候べし。然ニ先月 初五月;ナリシ長国下の関と申所ニ参り滞留致し候節、蔵に久しくあハぬ故たずね候所、夫ハ三日路も外遠き所に居候より其まゝニおき候所、ふと蔵ハ外の用事ニて私しのやどへまいり、たがいに手おうち候て、天なる哉天なる哉、きみよふきみよふと(奇妙奇妙と)笑申候。このごろハ蔵一向病きもなく、はなはだたしやなる事なり。中ニもかんしんなる事ハ、いつかふうちのことをたずねず、修日だんじ候所ハ、唯天下国家の事のみ。実に盛と云べし。

夫よりたがいにさきざきの事ちかい候て、是より、もふつまららぬ戦ハをこすまい、つまらぬ事にて死まいと、たがいニかたくやくそく致し候。

おしてお国より出し人ニ、戦ニて命ををとし候者の数ハ、前後八十名斗ニて、蔵ハ八九度も戦場に弾丸矢石ををかし候得ども、手きずこれなく此ころ蔵がじまん致し候ニハ、戦にのぞみ敵合三四十間ニなり、両方より大砲小銃打発候得バ、自分もちてをる筒や、左右大砲の車などへ、飛来りて中る丸のおとバチバチ、其時大ていの人ハ敵ニつゝの火が見ゆると、地にひれふし候。蔵ハ論じて是ほどの近ニて地へふしても、丸の飛行事ハ早きものゆへ、むへきなりとてよくしんぼふ致し、つきたちてよくさしづ致し、蔵がじまんニて候。

いつたい蔵ハふだんニハ、やかましくにくまれ口チ斗いゝてにくまれ候へども、いくさになると人がよくなりたるよふ、皆がかわいがるよしニて、大笑致し候事ニて候。申上る事ハ千万なれバ、先ハこれまで、早々。かしこ。

   九月九日        龍
    池 さま
    杉 さま

 (中略)

この手紙から

① 閏5月に下関で偶然内蔵太に出会い「きみよふきみよふと(奇妙奇妙と)」手を打ち合って喜びあったこと

② 一晩中「国事」を論じ、「もうつまらぬ戦は起こすまい、もうつまらぬ事で死ぬまい」と誓い合ったこと


がわかります。

長崎の女性として大浦お慶と芸者のお元が登場しました。大浦お慶は文政11(1828)年長崎の油商の家に生まれました。お慶は嘉永6(1853)年日本茶アメリカ・イギリス・アラビアに輸出し莫大な利益を得たといわれます。志士たちをよく援助し、亀山社中の面々もお慶の世話を受けたそうで、なかでも陸奥陽之助とは深い関わりを持ったといわれます。

龍馬とお慶の関わりは?? と思っていたところ

近年、織田毅さんの『海援隊秘記』(戎光祥出版、2010年。)という本にお慶の親族方から龍馬の写真がみつかったということが記されていました。

お元については23,4の美人で龍馬馴染みの芸者として龍馬の仲間内で噂になっていたようです。劇中では公儀の密偵でありながら隠れキリシタンであるという役どころのようですね。

お慶―お元の人物研究が深まれば、長崎での龍馬の姿が鮮明になるかもしれません。

カステラ作りに勤しむ龍馬たち。カステラのレシピは龍馬の雑記帳とも龍馬の甥・高松太郎の備忘録とも伝えられる「雄魂姓名録(ゆうこんせいめいろく)」に記されています。 

劇中の「龍馬=薩摩の手先」的な描き方には西郷隆盛の描き方も含め大いに疑問があります。薩摩は龍馬たちに好意的であったことを描くべきではないでしょうか。

龍馬が薩長和解を説くのは薩摩に移ってからのこと。 

動き出さない龍馬たち・・・。

「日本の夜明け」も「龍馬の夜明け」もまだまだ遠いのでした・・・。