JIN-仁-のいる風景



慶応3(1867)年5月、京都では第15代将軍・徳川慶喜を中心に「国是」(日本の方針)を決定する会議が開かれました。この京都会議に集められたのは薩摩「国父」(当主の父)島津久光・越前老公(前当主)/松平春嶽・伊予宇和島老公/伊達宗城・そして土佐老公/山内容堂ら4人の実力者・前当主たちでした。慶喜島津久光ら「四侯」との会議なので「四侯会議」と呼ばれます。4月12日には島津久光が入京し、4月15日には伊達宗城が、4月16日には松平春嶽が相次いで入京。容堂は持病の「歯痛」と山内家内の意見の統一に手間取ったため5月1日一足遅れて入京しました。5月14日「四侯会議」が開かれました。会議の議題は「兵庫開港」と「長州問題」―このどちらを先に解決するかということでした。京都に近い兵庫を開港することを「非」としていた孝明天皇が死去すると(慶応2年12月25日)3月5日慶喜は兵庫を開港することを諸外国に約束。そのように「兵庫開港」を掲げる慶喜と、薩長盟約の実行のため「長州救助」論を説く久光との間で紛糾。松平春嶽が「問題の同時解決を」を仲裁するものの、慶喜は「兵庫開港」を先に解決すべしと朝廷から勅許を取得。慶喜が兵庫開港の勅許を得たことにより、「四侯会議」は解体し諸勢力は「新国家形成」を模索し始めます。

龍馬は同時期「脱藩」の罪を許され、土佐海援隊長として活動していましたが、慶応3年4月23日 龍馬の乗る「いろは丸」と紀州艦明光丸が讃岐箱ノ崎沖で衝突。いろは丸は沈没するという出来事―「いろは丸事件」が起こり、龍馬は6月初頭までこの事後処理に忙殺されます。6月9日、龍馬は京都政局における山内家の議論を協議するため後藤象二郎とともに帆船「夕顔丸」で京都へ向かいます。

そして慶応3年6月15日「夕顔丸」船内で有名な「船中八策」を起草したといわれてきましたが近年ではその「船中八策」の存在が疑問視されています。まず、この「船中八策」には自筆原本が存在しません。龍馬あるいは同行の海援隊書記・長岡謙吉が「八策」作成に携わったと断定するのは難しいでしょう。慶応3年6月15日に起草されたとする「船中八策」。しかし6月15日には龍馬たちは京都におり「夕顔丸」をおりているともいわれます。とすると「船中八策」の「船中」は妥当ではない、ということになります。さらに大正時代に『坂本龍馬関係文書』を編纂した岩崎鏡川は「船中八策」を「新政府綱領八策」と呼んでいます。同名の別史料(こちらは原本あり)が存在するため複雑です。また明治中頃・弘松宣枝はその著書『坂本龍馬』のなかで「船中八策」を「件議案十一箇条」と現しており「船中八策」の別ヴァージョンが存在した可能性を示唆しています。

※ 上の「船中八策」の話題は歴史家の桐野作人先生の研究成果を参考にさせていただきました。(参考文献:桐野作人「船中八策大政奉還」『坂本龍馬伝』新人物往来社、2009年 所収)

仁が龍馬の身を案じ「土の龍 道に果てつる寒き京ご注意を」と手紙を書き送ったのはこの頃のことです。 恭太郎は引き続き、龍馬の動きを見張るように命じられます。

その一方で仁は野風の出産を仁友堂で行なえるよう、咲や仁友堂の仲間・田中久重らの協力をその準備を万端に整えていました。龍馬や野風(未来)の未来を案じながら・・・

6月17日、土佐の重役会議で「政権返上論」を押し立てる方針を決議。後藤象二郎は土佐の政局論が「政権返上論」に決定したことを6月20日に小松帯刀に、21日に伊達宗城に告げています。

6月22日三本木の料亭で薩摩藩から小松帯刀西郷隆盛大久保利通土佐藩から後藤象二郎・寺村左膳・真辺栄三郎・福岡孝悌の両藩首脳および坂本龍馬中岡慎太郎が会合し7か条から成る「薩土盟約」が締結されました。この時の薩摩・土佐の主張は相反するものではなく京都政局の状況に臨機応変に対応しながら最後には「王政復古」を目指していく、そのような「盟約」でした。

「薩土盟約」や土佐の「政権返上運動」(大政奉還)・新しい国家の形を模索した「王政復古」など龍馬の「国事周旋」の奔走した根底には「昔日の長薩土とな」ることへの「相楽ミ」―期待(慶応3年2月16日付 三吉慎蔵宛 龍馬書簡を編集)がありました。京都政局で毛利・島津・山内家がそれぞれが国事に奔走していた文久期の頃の様に(薩摩/長州に並び立つほどの)土佐の威厳を取り戻したい―そのためには武力兵乱をも辞さない「政権返上」(大政奉還運動)を行なうべきである―これが龍馬の慶応3年9月時点での考えであったと思われます。(「JIN-仁-」の龍馬像と異なりますが・・・。)これらの行動は

故郷・土佐を薩摩・長州に並び立たせたいとする龍馬の想いから出たものだったのです。

大政奉還前後の龍馬VS西郷・大久保・中岡のような構図はまずあり得ないと思います。

慶応3年10月― 10月3日土佐より大政奉還が建白されます。

そして慶応3年10月13日 徳川慶喜各大名家の代表者を京都へ招集 後藤象二郎は山内家代表として慶喜の求めに応じます。政権返上がなるか否か―この劇的な日に龍馬は後藤に激励の手紙を書き送っています。(また、この日龍馬は酢屋から近江屋に移っています。)

・慶応3年10月13日付 後藤象二郎宛 龍馬書簡 原文

御相談被遣候建白之儀、万一行ハれざれば固

より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海

援隊一手を以て大樹参内の道路

ニ待受、社稷の為、不戴天の讐を報じ、

事の成否ニ論なく、先生ニ地下ニ御面

会仕候。○草案中ニ一切政刑を挙て

朝廷ニ帰還し云〻、此一句他日幕府よりの

謝表中ニ万一遺漏有之歟、或ハ此一句

之前後を交錯し、政刑を帰還

するの実行を阻障せしむるか、従来

上件ハ鎌倉已来武門ニ帰せる大権を

解かしむる之重事なれバ、幕府

に於てハいかにも難断の儀なり。是

故に営中の儀論の目的唯此一欸已(のみ)

耳(に)あり。万一先生一身失策の為に

天下の大機会を失せバ、其罪天地ニ

容るべからず。果して然らバ小弟亦

薩長二藩の督責を免れず。豈いた

徒ニ天地の間に立べけんや。

            誠恐誠懼

  十月十三日       龍馬

 後藤先生

     左右

龍馬の後藤への期待があふれ出ているような手紙です。手紙を書いているとうの龍馬も興奮したのでしょう。近年になりこの手紙の書き損じが発見されています。慶応3年10月13日 徳川慶喜は政権を朝廷に返上しました。内乱を避け新国家を形成しようと熟考した結果だといわれます。政権を朝廷に返上したことで来るべき新政権において慶喜も要職を占める可能性もありました。

同日、仁友堂では野風が出産! しかし生まれてくる子は逆子! 一時は野風の命を尊重し仁は子どもを諦めかけますが咲の言葉と野風の叫びを聞き帝王切開を決意。

野風の脈が止まるなどトラブルに見舞われましたが無事女の子が生まれました。

野風の手術を終えた仁は、勝海舟から「船中八策」の草案を提示されその中の(あるはずのない)第9条に「みなが等しく必要なる医療を受けられ健やかに暮らせる保険なる仕組みをつくる事」という文言を見つけ号泣! また海舟から龍馬の誕生日(運命の日)が11月15日だと聞き、京都へ向かおうとするのですが、またもあの偏頭痛に襲われたのでした。