<龍馬を語ろう> 第38回 坂本龍馬書簡―木戸家文書 寺田屋事件の顛末を読む(ちょこっと感想)



「幕末維新 志士の手紙を味わう」 講座の第4回目に参加。

 「坂本龍馬書簡―木戸家文書 寺田屋事件の顛末を読む」というテーマで、宮内庁「木戸家文書」所収の木戸孝允宛の坂本龍馬書簡(慶応2年2月6日付)

大正天皇所有(当時は皇太子)の宮内庁編纂『殉難録稿』(じゅんなんろくこう)<明治40年発行>と関連資料を読みました。

土佐出身の維新史家・岩崎鏡川(いわさき きょうせん)は大正5年、その編著『坂本龍馬関係文書』のなかで、土佐の志士を「波の流れのように自らを変化させる」「海洋型」と「直情志向」の「山岳型」の2タイプにわけ、「純粋の海洋型の人物としては、僅かに後藤暢谷伯(ちょうこく 後藤象二郎)と坂本直柔先生(なおなり 龍馬)とを見るのみである」と評しています(「山岳型」には、武市半平太中岡慎太郎が分類されるという)。

また批評家・橋川文三は岩崎の「海洋型」という表現を用いて、龍馬の思想は「あらゆる権力関係」といった「閉じた思考」ではなく、「海」のような、なんらの「頂点」も「中心」も形態さえもない「ほとんどアナーキズムに近い」ものであると述べている。また「天衣無縫」で「天真爛漫」まるで「自然児」のような「人間性」が龍馬の「魅力」であるといいます。

そんな「魅力」溢れる生涯を送った龍馬の最大の危機が、慶応2(1866)年1月23日未明に起きた「寺田屋事件」です。来るべき長州戦争、また当時の京都情勢に対処するために薩摩・長州間で結ばれた「薩長盟約」を見届けた龍馬は、1月23日未明寺田屋で襲われました。

今回の慶応2年2月6日付木戸孝允宛の坂本龍馬書簡は木戸への事件報告を兼ねた「詫び状」ともいえるものです。

なぜ「詫び状」なのでしょうか? 実はこの「薩長盟約」は「成文化」されていませんでした。そこで龍馬は盟約締結後早い段階で盟約を「成文化した」書類を届ける心積もりでいたのではないでしょうか。心ならずもそれが叶わなくなったので事件の報告を兼ね「詫び状」を認めたのでしょう。

木戸孝允宛の坂本龍馬書簡(慶応2年2月6日付) 本文



このたびの使者村新(村田新八)同行にて参上仕り可なれども、実に心に任せざる義これ在り、故は先月二十三日夜伏水(見)に一宿仕り候ところ、不斗(はからず)も幕府より人数さし立て、龍(馬)を打取るとて夜八ツ時ごろ二十人ばかり寝所に押し込み、皆手ごとに鑓とり持ち、口々に上意々々と申し候につき、少々論弁もいたし候えども、早も殺し候勢いあい見え候ゆえ、是非なくかの高杉よりおくられ候ピストールをもって打払い、一人を打ちたおし候。何れ近間に候えば、さらにあだ射ち仕らず候えども、玉目少なく候えば、手を負いながら引取り候者四人ござ候。

この時初め三発致し候とき、ピストールを持ちし手を切られ候えども浅手にて候。そのひまに隣家の家をたたき破り、うしろの町に出候て、薩(摩)の伏水(見)屋敷に引取り申し候。ただ今はその手きず養生中にて、参上ととのはず、何とぞ、御仁免願い奉り候。いずれ近々拝顔、万謝奉り候。謹言々。

二月六夕      龍

    木圭 先生 机下

本文を読むと

? 薩摩藩村田新八西郷隆盛の弟分 のち西南戦争で西郷とともに戦死。>を自分の代役として立てたこと

? 事件のあらまし

? 幕吏に「高杉晋作」から送られたピストルで応戦したこと

がわかります。

木戸と高杉との関係性を考えて、

かの「高杉晋作」さんから送られたピストルで幕吏を打ち払いました、とさりげなく書くところなど龍馬のアピール力が見て取れます。

この木戸宛の書簡を読むと、「事件」を単純に報告している龍馬ですが明治時代に編纂された、維新志士の伝記史料『殉難録稿』には有名な「寺田屋事件」のエピソード―お龍が風呂場から飛び出して龍馬に危機を知らせる場面や、槍の名手である長府藩士・三吉慎蔵(みよし しんぞう)の奮闘、龍馬の寺田屋からの大脱出など「名場面」が掲載されています。

とても興味深い史料です。

またこの手紙の龍馬の筆跡をみると、襟をただし木戸に敬意を払っていることがよくわかります。龍馬の筆遣いや息遣いまでもが伝わってくる―そんな手紙でした。