<龍馬を語ろう> 第37回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第20話・感想

龍馬伝」第20話。お話の進行時期は文久3(1863)年5月〜6月。大坂の「勝塾」にいる龍馬を兄・権平が訪ねてくるところから今回の物語は始まります。ただし年表上、権平が龍馬を訪ねたのは「3月某日」となっているのでエピソードをずらしています 物語の後半、龍馬の「海軍づくり」にエールを送り去りますが、その際権平は家族宛の手紙には龍馬を連れ戻そうとしたと書くように、と言い残します。このシーンはおそらく、乙女に宛てて勝海舟への弟子入りを報じた手紙の一節 (文久3年3月20日付)


私年四十歳になるころ
までハ、うちにハかへらん
よふニいたし申つもりに
て、あにさんにもそふだん
いたし候所、このごろハおゝきに
御きげんよろしくなり、その
おゆるしがいで申候


(<勝先生の下で海軍修行に勤しんでいるので>私が40歳くらいになるころまでは家に帰らないつもりであることを権平兄さんにも相談して、<説明>致しましたところ、とてもご機嫌がよろしくなり、海軍修行のお許しが出ました)

を念頭においたものでしょう。


龍馬が40歳になるころには実家に戻り、坂本家の家督を継ぐことが権平たちの願いだったようです。

坂本家の家督については龍馬も気にかけていたようで、のち勤王党同志で縁戚の川原塚茂太郎に宛てて、何卒「養子のつがふ(都合)」を整えてください、と依頼をした手紙が残されています(文久3年8月19日付)


さて、兄・権平の「お許し」を得て活躍する龍馬は劇中にあったように「勝塾」の資金集めのため越前福井の松平春嶽のもとへ向かいます。5月16日のことです。

20日ごろ龍馬福井着。そして福井藩顧問・横井小楠(よこいしょうなん 熊本出身)・福井藩士・三岡八郎(みつおか はちろう のちの由利公正 ゆりきみまさ 五箇条誓文の起草者)を前に「1000両」借用したい旨を申し入れます。龍馬が福井藩へ「1000両」借用に向かったのは、

実は福井藩の挙藩上洛計画に加わるためだったといわれています。

これよりさかのぼること1年前の薩摩藩士がイギリス人を殺傷した「生麦事件」そして

この年5月に起きた長州藩の「ベンブローグ号」砲撃などに心を痛めた横井小楠福井藩を旗頭に武家・朝廷・外国を交えた「世界会議」を模索し始めます。

小楠らが考えた挙藩上洛計画は

福井から上洛して京都を制圧し、治安を回復させ、そのあと会議を開催し、朝廷・幕府・雄藩大名・尊攘派のほかにイギリス・アメリカ・フランス・オランダ・ロシアなど各国公使を参加させるというものでした。

龍馬も(勝 海舟の意を受けて)この挙藩上洛計画に外部協力者として参加する予定だったといわれています。結局、春嶽の「時期尚早」という言葉により福井藩の挙藩上洛計画は立ち消えになりますが、このエピソードひとつとっても福井藩の「外交家・坂本龍馬」への期待のほどがわかります。

姉・乙女に宛てた文久3年6月29日の「日本のせんたく」の手紙の一節、「一大藩によくよく心中を見込てたのみにせられ」という文言は姉に告げた大いなる自信かもしれません。

龍馬が福井へ京へ大坂へ活動の場を広げている頃、土佐では勤王党への弾圧が始まろうとしていました。

文久3年5月23日・24日「主君に対する不敬の罪」で、京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎間崎哲馬、弘瀬健太の3名が入牢。6月8日切腹。初の勤王党の犠牲者でした

切腹前の収二郎には爪で時世の句を残し、「斬首だと思っていたが切腹と聞いて安心した」と語ったと伝えられています。

明治の思想家・中江兆民が書き記した「平井収二郎切腹の現状」という覚書には、収二郎の最期は


平井は罰文(罪状を書いた文章)を聞き終えると、前に置いてある九寸五分(約三十センチ弱)の短刀を三方(さんぽう)とともに押し頂いて一礼し、その後、短刀の下に敷いてある布切れを取り、膝の上で短刀の中子(なかご・刀剣の柄〔つか〕の内部に入る部分)をその布切れで巻き、斜(なな)めに刀を操(あやつ)って、短刀の切っ先を左腹に押し当てて軽々と引き回し、わずかに血が出る程度で十分の気力を残した上で、次に咽喉(のど)を短刀で刺し、ここで力を込めて咽喉を断ち切ったため、少しもうめき声を出さずに前に突っ伏し、そのまま絶命しました・・・とあります。(介錯人が首を落としたという異説もあるようです)


間崎哲馬、弘瀬健太も相次いで切腹平井収二郎享年28 間崎哲馬享年30 弘瀬健太享年28

収二郎の死を加尾が龍馬に手紙で伝えていましたがおそらくフィクションでしょう。

姉・乙女に宛てた文久3年6月29日付の付(つけたり 追伸部分)で

そして平井の収次郎は誠に─じゅうもんじカ(十文字か←切腹の仕方)─むごいむごい。
いもうとおかお(妹お加尾)がなげきいかばかりか、ひとふで私のようすなど咄してきかしたい。
まだに少しはきづかいもする。

と記し加尾を思いやるとともに収二郎の死に深い嘆きを表しています。

収二郎たちの「無念の死」でした・・・。