第14回

この<龍馬を語ろう>も、はやいもので第14回。「少し遠回り」のつもりがだいぶ回り道をしてしまいました。でも急がば回れ、「龍馬伝」の話題も、人物編で取り上げた登場人物たちのエピソードも龍馬と幕末という時代を理解するのに重要なトピックばかりです。ゆっくり、ゆっくりお付き合いください。

前回は黒船来航の衝撃を龍馬が父・八平宛の手紙に認めたところまで取り上げました(第2回・第8回)。

龍馬は3月17日に土佐を出立し、4月の上旬には「小千葉道場」で草鞋を脱ぎ剣術修業をはじめます。

先回触れましたが、千葉家は1853年1月・鳥取池田家の剣術師範に就任。その門弟たちには水戸の家臣が多かったようです。
当時の道場は剣術だけではなく、議論の場としての役割を荷っていました。

後の安政の大獄の際に水戸家臣が龍馬を訪ねて来た事情はこのあたりにあるのでしょう。
江戸で剣術に励む龍馬にもうひとつの修行が待ち受けていました。

龍馬の郷里である土佐では黒船来航の緊張感に伴って軍事強化が当面の課題となっていました。そのため山内家は砲台建設と、その人材育成のため、若者たちに江戸での砲術の習得を義務付けました。(後年人斬り以蔵として名を馳せる岡田以蔵も砲術を学んでいます。)

龍馬もその中のひとりで12月1日、西洋砲術家佐久間象山に入門。象山には多くの門弟がおり、龍馬のほかにも勝海舟吉田松陰河井継之助などがそれぞれ時期は異なりますが、名を連ねています。

龍馬が入門した頃実際に教鞭を取っていたのは塾頭である小林虎三郎でした(「米百俵」で有名。河井継之助のライバル・後継者 戊辰戦争後、米百俵が学校建設資金として蓄え人材育成に尽力。)

というのも、象山は弟子の吉田松陰が下田で起こした密航未遂事件(ペリーの船に乗り込みアメリカへ密航しようとしたが失敗。ペリー暗殺を企てたとの説もある)に巻き込まれ、長野に蟄居させられてしまったからです。
龍馬は砲術修行に夢中になったようです。
そして1854年6月24日、土佐に帰国しました。
1年と少しの江戸遊学でしたが、龍馬には大きな自信となったのではないでしょうか。