第15回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第5話・感想



龍馬伝」第5話。ペリー来航―嘉永6年6月3日(1853年)。前回、黒船来航に対する龍馬の興奮についてはおおかた触れたので、今回は少し異なった角度から―。

ペリー来航の当時の幕府老中首座(幕府内政の実質上トップ)は阿部正弘(あべまさひろ)という男でした。

阿部は備後福山(現在の広島県)阿部家の当主でした。阿部は容姿端麗でそのことも相まって、大奥での人気は絶大なものがありました。幕府内で老中の地位に上り詰めるためには寺社奉行に任じられる必要がありました(それが当時の出世コースでした)。

なんと、その寺社奉行に22歳という若さで就任してしまうのです。(1840年)

さらに25歳の時、「天保の改革」(徳川後期)失敗の責任を取った水野忠邦(みずのただくに)の後を継ぐ形で老中の座につきます(1843年)。

天保改革後の人事刷新で有名な「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元(とおやまきんしろうかげもと)を北町奉行に任じたのは阿部です。

阿部老中就任前後の世界は清国がイギリスとのアヘン戦争に敗北したことによって、対外侵略の危機が日本に及ぶかもしれないとの危惧が一部の日本人にあらわれ出てきたのです。幕末の重要な「気分」(!?)のひとつです。(幕末維新期に一貫して続くムードです)

そして1852年(嘉永5年)ペリー(ペルリ)が江戸にやって来るという情報がオランダ領事のクルチウスより幕府へもたらされます。阿部はペリー問題に関して対応策を練るよう進言しますが他の幕閣たちは事の大きさに感覚が追いついていかなかったのか

何の打開策も見出せないまま嘉永6年6月3日を迎えます。

アメリカは産業革命によって、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で、「捕鯨」を盛んに行なっていました。これは、夜間も稼動を続ける工場やオフィスのランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油を使用していたからです。太平洋で盛んに捕鯨を操業していたアメリカは、太平洋での航海・捕鯨の拠点(薪、水、食料の補給点)の必要に駆られていました。その必要性から、アメリカは日本と「和親」の条約を結ぶ必要があったのです。具体的には「開港・開国」です。アメリカは日本をアジア経営の中継地点に考えていたものの、侵略の気持ちはなかったと思われます。

条約締結を渋るのには日本側にもそれ相応の事情がありました。12代将軍の家慶は既得状態。さらにその息子・家定(後の篤姫の夫)は病弱で困難な政治状況だといわれていました。外交と将軍継嗣問題が絡みつき、複雑な様相を呈していました。そこで阿部は外様大名にペリーの機密情報を流し、意見を収集することにしました。

幕府政治に外様大名が参画するということは前代未聞のこと。阿部の呼びかけに応じたのは徳川斉昭の息子・一橋慶喜を将軍に推挙していた、薩摩の島津斉彬・越前の松平慶永、そして土佐の山内容堂らでした。これらの人々は一橋派と呼ばれます。

こんな事情もあって日本側はアメリカの親書を受け取ること・和親条約の返答を延ばしに伸ばします。ペリーは日本側の態度にしびれを切らし、「1年後に返事を聞きに来る」と言葉を残し日本を去ります。(実際は琉球に寄航していました。) 翌年1月14日、また来航して3月3日に日米和親条約が締結されました。

阿部はペリー来航後の対応として勝海舟大久保一翁など、後に龍馬と交流を持つ人々の意見を取り入れ海防の強化に努めました。

阿部は生来病弱であったのと、内外の激務のため、老中職を後任の堀田正睦に譲り、安政4(1857)年、39歳で亡くなります。

維新の扉を開いたひとりといえるでしょう。

「黒船」の時代はこのような時代だったのです。

龍馬と桂小五郎が黒船を一緒にみたというのはやっぱりフィクション。黒船をみた龍馬は剣術修行に身が入らず、「剣を学んで何になる」と発言し、定吉・重太郎の怒りを買います。でも・・・黒船が来た時点で「時代が変わる」と定吉たちはなんとなく感じたはず。あんなに激怒したのかは?です。

それに剣術と実戦の違いはわきまえていたはずです。

山内のお殿様が登場しました。山内豊信(やまうちとよしげ):隠居後容堂(ようどう) ペリー来航時 27歳 あの若白髪はちょっと・・・(笑)

以上第5話の感想でした。