第12回 人物編  岩倉具視

「岩吉」(いわきち)とあだ名された少年がいました。
 
 この岩吉こそ、幕末から明治維新にかけて「王政復古」に尽力し、新政権を
 樹立した重要人物・岩倉具視(いわくらともみ)、その人でした(明治の「岩倉使節団」でも有名ですね)。
 
 岩倉は文政8(1825)年、下級公家である堀川康親(ほりかわやすちか)の息子として京都に生まれました。幼名は周丸(かねまる)。幼少期の周丸は漢学などの教養より、囲碁など戦略的遊びを好んだ才気溢れた少年だったようです。

 冒頭の「岩吉」というあだ名は頑固でもあった周丸に周囲がつけたものです。
 岩倉の写真をみると、その表情から「頑固さ」や「意志の強さ」が伝わってくるかのようです・・・。

 天保9(1838)年、周丸14歳の時岩倉具慶(ともやす)の養子となり名を「具視」と改めました。岩倉具視の誕生です。
 
 彼の政治家としての端緒はペリー来航(1853年)をきっかけとして関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)に歌道の門下として接近したことでした。

朝廷の人事改革に関する意見書を提出し、頭角を現していきます。

 安政5(1858)年日米修好通商条約調印で、アメリカと単純に条約を結ぶことを良しとしなかった岩倉は同僚の公家88人とともに条約調印肯定派の関白・九条尚忠(くじょうひさただ)の屋敷へ押しかけました(「廷臣(ていしん)88卿列参事件」)。
 
 岩倉の意見書「神州万歳堅策(しんしゅうばんざいけんさく)」には

・「開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった」
 
 ・「条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策」
 
 ・「相手国の形成風習産物を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する」
 
 ・「米国は将来的には同盟国になる可能性がある」

・「国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき」
 
 等々の意見を記し、条約締結反対でも攘夷一辺倒ではなく、挙国一致で事に当たろう、必要であれば外国からも学ぼう、とする岩倉の態度が垣間見えます。

 万延元(1860)年桜田門外で井伊直弼が暗殺されると朝廷と武家が協力して政治を行なおうという公武合体論が盛り上がり、政策として天皇の妹・和宮(かずのみや) を将軍・家茂の妻にしようとする計画が出てきます―「和宮降嫁」です。この和宮降嫁に積極的に動いたのは他ならぬ岩倉でした。
 
 岩倉は「和宮御降嫁に関する上申書」を孝明天皇に提出し、
・今回の降嫁を幕府が持ち掛けてきたのは、幕府は権威が地に落ちて人心が離れていることに認識しており、朝廷の威光によって権威を粉飾する狙いがある
・皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わねばならないが、この収復は急いではならない。急げば内乱となる。

今は「公武一和」を天下に示すべき

・政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきである。
・朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。今回
 の縁組は、幕府がそれを実行するならば特別に許すべき

 と、今回の婚姻の幕府の目論見・新国家建設の模索・朝廷の権威上昇などの意見を述べました。岩倉を側近中の側近として重用していた孝明天皇は意見を受け入れ「和宮降嫁」が成りました(文久2=1862年)。
 
 しかし「天皇の妹君を将軍の妻にするなどけしからん」と猛反対する声があがりました。岩倉に対するやっかみもあったでしょう。この事態を収拾するために、同年岩倉は蟄居を命ぜられます。
 
 蟄居先の京都洛北岩倉村―王政復古の直前まで5年間生活することになります―には大久保利通西郷隆盛中岡慎太郎坂本龍馬など多くの有名志士が訪れ、幕府制の否定・朝廷の変革を模索するのです。
 
 岩倉蟄居中の慶応2(1866)年、孝明天皇が亡くなり暗殺説が流れ、岩倉の名があがりますが「巷の噂」かもしれません。
 
 慶応3(1867)年12月9日 王政復古により、岩倉は蟄居を解かれ新政府の参与に任じられます。その後政府の「輔相」(政府のナンバー2)に就任。
 
 その後副総裁・外務卿・太政大臣代理就任。その間同僚の大久保利通木戸孝允伊藤博文らとともに版籍奉還廃藩置県に尽力。
 明治4(1871)年「岩倉使節団」で欧米を視察。

 明治11(1878)年大久保利通暗殺後へ政府の実質トップとして重きを成しました。

 明治16(1883)年 咽頭ガンにより死去 59歳。

 慎重で豪胆な公家の死でした。

岩倉の死は明治政府の「助走」の終わりを意味していたのかもしれません。