第13回 人物編 アーネスト サトウ

 サトウ―という人物がいる。サトウというと日本人の「佐藤さん」の響きを思い出してしまいそうになるが、今回のテーマのサトウはれっきとしたイギリス人である。

アーネスト・サトウ(Ernest Satow 1843〜1929)はロンドン出身のイギリスの外交官である。

ロンドンユニバーシティカレッジ在学中に、兄が図書館から借りてきた『エルギン卿遣日録』(1858年に日英修好通商条約日米修好通商条約のイギリス版―を締結したエルギン伯の日本での記録)を読み、異郷・日本に憧れ、1861年通訳の試験に合格し、1862年来日。

よく幕末期を形容する時、「動乱」という言葉を用いることがあるが、彼がやってきた時期の日本はまさに動乱の真っ只中であった。

サトウが来日して6日後に生麦事件(英国人リチャードソンが島津久光の行列を横切り、薩摩の家臣がリチャードソンを無礼討ちにした事件 翌年薩摩とイギリスの間に戦争が起る=薩英戦争)が起り、当時盛んであった「攘夷」の恐怖を目の当たりにした。

薩摩とイギリスの戦争の経験からサトウは、日本語が堪能であったこともあり、通訳という仕事を通じて薩摩の西郷隆盛小松帯刀らの改革派と親睦を深め、自らは「薩道」(サトー)を名乗った。

1866年・薩長盟約が結ばれ、薩長が新しい国家形成を模索し始めた頃サトウは匿名で「ジャパンタイムス」紙に「これからは徳川が独占しているだけの政治ではなく、有力な大名が協力して政治を行なうべきだ」という意味のエッセイ(「英国策論」)を投稿した。これはイギリスの自由貿易論が反映されている文章で、サトウの知らぬ間に印刷され、薩摩・土佐・朝廷などの有力者間で読まれたらしい(西郷隆盛後藤象二郎岩倉具視など)。

その翌年の1867年大政奉還。サトウはある意味では日本を新しい国家につくりかえた
「影のプロデューサー」といえるかもしれない。

明治維新後、サトウは1884年-1887年、シャム駐在総領事代理、1889年-1893年ウルグアイ駐在領事、1893年-1895年、モロッコ駐在領事を経て、1895年7月28日、駐日特命全権公使として日本に戻った。
1900年-1906年、駐清公使として北京に滞在、義和団事件の後始末を付け、日露戦争を見届けた。1906年、枢密院顧問官。1907年、第2回ハーグ平和会議に英国代表次席公使などを歴任。引退後、世界初の「ジャパノロジスト」(日本学者)として日本文化を世界に普及させた。なかでもサトウの日記および『日本の外交官』(坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』 岩波文庫、1969年。)は幕末維新を研究するための必須資料だ。

例えばこれは鳥羽伏見の敗戦後の徳川慶喜の描写だ。

その時、あたりが静かになった。騎馬の一隊が近づいて来たのだ。
 日本人はみなひざまずいた。

 それは慶喜と、その供奉の人々であった。
 私たちは、この転落の偉人に向かって脱帽した。

 慶喜は黒い頭巾をかぶり、普通の軍帽をかぶっていた。
 見たところ、顔はやつれて、物悲しげであった。
 彼は、私たちに気づかなかった様子だ。

このような生々しい慶喜の様子もサトウの記録は伝えてくれる。

一言では語りつくせない魅力溢れる人物である。