第10回 人物編 小松帯刀



幕末や明治維新関連の文章を読んでいると必ずといってよいほど小松帯刀( こまつたてわき)という名前に出くわす。昨年の大河ドラマ篤姫」で人気が出たのでご存知の方も多いことだろう。小松は薩摩島津家の一門(親族)である胆付兼善(きもつきかねよし)の3男として、1835(天保六)年に生まれました。坂本龍馬篤姫と同い年ということになる。

最初の名を肝付尚五郎(きもつきしょうごろう)といった。子どものころは病弱であったが、温泉と薩摩琵琶を好む心優しい性格だったようである。

 

江戸で、開明的であった島津家当主・島津斉彬(しまづなりあきら)に海外情勢についての教えを受ける一方、小松家の養子となるよう命を受ける。

1855(安政二)年―小松帯刀の誕生である。

 島津斉彬の死後、薩摩の実権は弟の久光が握る。小松は久光の側近から家老に抜擢され、 やがて中央政局―主に京都に飛び出して行くことになるのである。


1865(慶応元)年、坂本龍馬の「亀山社中」設立は、小松の協力があってのものといわれているし、幕末の政情を一変させた薩長盟約(1866=慶応二年)京都の小松邸で結ばれたといわれている。

 1867(慶応三)年、将軍・徳川慶喜が「大政奉還」をした際も慶喜の「英断」を土佐の後藤象二郎とともに讃えた。

 このように小松は幕末の重要な場面に「顔」を出している。

さて、 小松の「顔」・・・。幕末期に来日し、興味深い記録を残したアーネスト・サトウの言葉を借りよう。


「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。顔の色も普通よりきれいだったが口が大きいのが美貌を損なっていた。」


 確かに残された小松の写真をみると堂々と爽やかな顔つきをしている。

今で言うイケメン(!?)・・・かもしれない。

ある時は西郷隆盛大久保利通の「影」となり、ある時は中央政局の「表」に立った小松帯刀

明治になり外交の政務を行なうが病を得て、1870(明治三)亡くなる。三十六歳であった。

 小松の死因は「足痛」とされている。この「足痛」についてはよくわかっていない。痛風とも、脚気とも、糖尿病ともまた肺結核とも伝えられる。

 小松の基礎資料は数が少なく、『小松帯刀日記』/『小松帯刀傳・履歴・ 記事』が知られている。

昨年の大河ドラマでとりあげられたとはいえ、まだ 「横顔」をのぞかせたにすぎないのかもしれない。

小松の人となりや生きた時代の研究が進むことによって明治維新史、ひいては日本近代史の新たな「深み」が出てくることだろう。