JIN-仁-のいる風景



龍馬との距離を感じたまま長崎から江戸に戻った仁。時代は刻々と動いていました。慶応2(1866)年12月5日、一橋慶喜が徳川第15代将軍に就任します。その20日後の慶応2年12月25日、孝明天皇崩御

 

 そのような世情の中、恭太郎は老中板倉勝静(いたくらかつきよ)より坂本龍馬の動きを探るよう命じられます(栄さんには「奥詰歩兵頭」に就任したと事情を説明していました)。龍馬は寺田屋事件以後公儀に危険視されていました。 勝海舟を通じて龍馬と親交のある恭太郎は辛い立場に立たされたわけです。龍馬は(仁の言葉を胸に)活動を続けていました。慶応3(1867)年初頭、龍馬は土佐の上士後藤象二郎と会談。いわゆる「清風亭会談」と呼ばれるものですが詳細はわかっていません。中央政局において今後の土佐の取るべき方針を話し合ったものと思われます。慶応3年1月〜2月頃のことでしょうか。(龍馬が土佐へライフル銃を運ぶのは慶応3年9月でもう少し 先のことです)。仁は龍馬「暗殺」を止めようと「運命の日」を思

い出そうとしますがまたも「謎の頭痛」に襲われてしまいます。

 

 仁は時代状況を把握しようと勝海舟のもとを訪れ、海舟から「四侯(参与)会議」の計画があることを耳にします。この会議は将軍慶喜と4人の実力者(薩摩の島津久光/越前の松平春嶽/土佐の山内容堂/宇和島伊達宗城)が

京都に上りこれからの国の方針を決定しようとする会議でした。

 この会議は兵庫の港を開くことを優先すべしとする慶喜と徳川と戦争をした 長州の罪を許すべしとする諸侯の間で紛糾。結論は出ませんでした。

 会議が実際に行なわれたのは慶応3年5月でした。この会議には龍馬の存在は関係ありません。龍馬の暗殺を必死に止めようとする仁のもとへ2通の手紙が―。

 1通は龍馬からの「長芋の中より出でたる虫たちの江戸の芋にもすくいたるかな」 と裏書した写真。1通は野風とルロンの結婚式の招待状でした。

 

 龍馬の歌の意味を気にしながらも野風とルロンの挙式に出席するため横浜へ向かった仁と咲。再会を喜び和気藹々と過ごす4人―。

 しかし野風は仁に重大な事実を告げます。乳の岩(乳がん)再発の恐れがあること、自分の身体に新しい命を宿していることを―


 野風や生まれてくる子どもが命を落すかもしれない― 仁は思い悩みますが咲の「ただの歴史」創りあげるという言葉の後押しを受け、野風の夢を叶え「歴史の修正力」に抗うために仁は仁友堂での野風の手術を決意し龍馬は「政権返上=大政奉還運動」に向けて動き出すのでした(史実より早く実際の龍馬の考えと異なります)。