JIN-仁-のいる風景

徳川「公儀」と長州との間で戦端が開かれた慶応2(1866)年6月、世情の不安定さから武蔵国を中心とした「武州世直し一揆」が起こりました。そのような世情不安の中、仁は長崎の「精得館」(せいとくかん)で講義を行なっていました。「精得館」は公儀の医療機関である養生所・医学所が統合され慶応元(1865)年の4月に開設されました。
 この「精得館」の教頭がボードウィンでした。ボードウィンは文久2(1862)年公儀に招聘されて以来明治3(1870)年にオランダに帰国 するまで日本医学の近代化につとめました。(劇中触れられていたように専門は眼科。)1885年オランダで没。66歳でした。
仁が長崎へやって来た目的は龍馬に「暗殺」されるという「結末」を告げるためでした。しかし龍馬はこの時期、「長州」を救援するために動いていました。 

「どふぞ野次馬させてはくれまいか」と高杉晋作に頼み込むほど「長州戦争」の経過に注目していたのです。この戦争を巡る認識・対応で龍馬と仁にすれ違いが生まれます。龍馬を暗殺される宿命からどうしても救いたいという気持ちが痛いほど伝わってくるようです。
 龍馬は龍馬でグラヴァーなどとも協力し長州戦争の動向を見定めながら新しい国家の形を模索していました。龍馬との関係に戸惑う仁は精得館の学生である岡田こと田中久重(たなか ひさしげ)に話を持ちかけます。田中は久留米の生まれ。「からくり儀右衛門」という名で知られた発明家でした。鼠灯、無尽灯、万年時計を作り上げ後には佐
 賀に呼ばれ同地の富国に尽力しています。明治8(1875)年には「田中製作所」を創立。ちなみに田中製作所は「東芝」の原型になりました。
 明治14(1881)年没。82歳。
 田中の言葉により仁は「医学という光でこの世を照らそう」と自信を取り戻すのです。一方、仁の言葉は龍馬にも強く突き刺さっていたのでした・・・。