JIN-仁-のいる風景

脚気ビタミンB1不足により起こるむくみ、または心不全)の特効薬である「安道名津」を医学所頭取・松本良順(まつもと りょうじゅん)の依頼により、皇女・和宮(かずのみや)に献上することになった仁。

しかしこの話には、奥医師である多紀 元琰(たき げんえん)の企みが隠されているようで・・・。
 
(ちなみに実際の多紀 元琰は、長崎で修行をし、日本初の西洋式病院設立に尽力した奥医師で徳川14代将軍・家茂/和宮の主治医であり、後には徳川家の人間として会津戦争などに従軍したという経歴の持ち主で「仁」に描かれているような陰謀をめぐらすタイプの人間ではなかったと思われます)。
 
 さて、砒素を混入されてしまった和宮。澤村 田之助(さわむら たのすけ)が 「あの方は日本で一番寂しいお姫様だからねえ」と呟いた如く激動の時代を生き抜いたヒロインの1人でした。
 
 和宮仁孝天皇(にんこうてんのう)の8女として生まれ、嘉永4(1851)年、6歳の時有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)と婚約するもペリー来航後の激動した政局によって和宮は熾仁親王との婚約を破棄させられ、(徳川家と朝廷の結びつきを強めるため=公武合体文久元(1861)年徳川家茂と婚約 いわゆる「和宮降嫁」です。
 
 和宮と家茂の夫婦仲は大変良く2人の仲睦まじい関係は、慶応2(1866)年家茂が長州戦争に旅立ち大阪城で亡くなるまで続いたようです。

(今回のお話はこの前後のことではないでしょうか。)

 和宮は家茂の死後「静寛院宮」と号し、「幕府」瓦解後も徳川家の人間として「江戸無血開城」に尽力し明治10年9月2日脚気衝心のため、療養先の箱根でなくなります。32歳の若さでした。
 
 「和宮への毒物混入容疑」により仁は小伝馬町の牢屋へ送られてしまいます。
  果たして仁の運命や如何に・・・。