第73回 人物編 高杉晋作

大河ドラマ龍馬伝」で坂本龍馬と同様、(いやそれ以上に?)人気急上昇中の高杉晋作。晋作のエピソードやその生涯は伝説化された部分も含め、魅力に溢れたものといえるでしょう。
 
 高杉晋作天保10(1839)年8月20日、長州毛利家家臣・高杉 小忠太(たかすぎ こちゅうた) 母・ミチの長男として生まれました。

 高杉家の家格は馬廻(うままわり)主君のお側近くに仕える役職でした。

 (他家の坂本龍馬中岡慎太郎西郷隆盛などが下級の出身だということと比べてもその身分の高さがわかります。)

晋作は生来病弱で嘉永元(1848)年 10歳の時疱瘡を患いますがその後回復。(確かに晋作の残された写真をみると細面で頑強とは言い難いかもしれません・・・。)
 
ペリー来航の翌年の安政元(1854)年、晋作19歳の時吉田松陰松下村塾に入門し同門の久坂玄瑞らからも刺激を受け鍛錬に勤しみます。

 (もっとも松下村塾門下は当時「乱民」と呼ばれ、萩の人々に快く思われず晋作も父・小忠太に隠れて松陰のもとに通っていたようです。
 
 安政6(1859)年晋作21歳の年の10月27日 安政の大獄で師の松陰が刑死。
 
 翌万延元(1860)年晋作は海軍修行および剣術修行のため江戸から北関東・信州を転々とします。(途中で挫けてしまいますが・・・)

 文久元(1861)年毛利家当主の世子・定広(さだひろ)の小姓となり江戸に赴きます。
 文久2(1862)年 24歳の晋作は「公儀」の使節団として上海に向かいます(晋作自身はイギリス行きの希望を持っていたようですが・・・)晋作はアヘン戦争に敗れ、太平天国の動乱の最中にある清国の実情をその眼で見「わが日本もうかうかしていると清国の二の舞になる」という危機感が晋作の胸に去来したことでしょう。

 上海から帰国した後(7月11日)、の12月12日晋作は久坂玄瑞らとともに品川御殿 山に建設中の英国公使館の焼き討ちを計画しますが未遂に終わります。
 
 この英国公使館焼き討ち計画は晋作たちが公儀に攘夷決行を促すためにわざと行なったものだともいわれていますがその真意はよくわかっていません。
 
 文久3(1863)年、25歳の晋作は毛利家政府に10年の暇乞いを願い出、毛利家政府はその届けを受理します・・・しかし幕末の政局は晋作にその暇(いとま)を与えませんでした。

 文久3年5月10日長州は朝廷の命により外国船を砲撃し「攘夷」を決行、この時「攘夷」を決行したのは長州1家だけだったのですが―このことにより長州は諸外国の反感を買い西洋諸国との戦争をも意識した緊張状態に追い込まれていくのです。毛利家当主・敬親(たかちか)はこの緊張状態を打開するために、晋作を御前に呼び出します。晋作は敬親にこう切り出します。

―馬関のことは、臣に任ぜよ 臣に一策あり 請う、有志の士を募り一隊を創設し、名づけて奇兵隊といわん―

文久3年6月「奇兵隊」の誕生です。

 奇兵隊は攘夷戦に備えて整備された軍隊でした。晋作はその初代総督となります

(晋作は奇兵隊を創ることで身分制度を解体することまでは考えていなかったようです)。
 
 こうして初代奇兵隊総督となった晋作でしたが文久3年8月に起こった教法寺事件(きょうほうじじけん)<奇兵隊と毛利家の正規隊 撰鋒隊の揉め事>の責任を負い、9月初代総督を辞任。10月晋作は奥番頭役に任じられます。長州毛利家はこの頃「文久政変」<=8・18クーデター 急激な「攘夷」を行なった長州を薩摩・会津の連合軍が京都から追放した事件>で京都を追われていました。

 これに対し、長州では「毛利家が『攘夷』を行なったのは孝明天皇の意志を受けてのことだ」と主張する者たちも少なくなく、この主張を以て再び上京しようという気運 (京都進発論)が高まっていました。
 
 遊撃隊総督・来島又兵衛(きじま またべえ)はその1人でした。元治元(1864) 年 26歳の晋作は1月家命により、「京都進発」を思いとどまらせようと来島を説得しますが、敢え無く失敗に終わり、晋作はそのまま京都に走ります。こうして京都へ留まっていた晋作ですが、桂小五郎の説得によって3月には萩に戻り、野山獄に収容され、6月には出獄し、謹慎処分を受けました。晋作が謹慎を続けていた頃―元治元年7月18日には毛利家家臣の一部、久坂・来島ら諸隊と薩摩島津家 会津連合軍が京都御所近くで衝突した「禁門の変」 、8月には長州が英米蘭仏の4カ国連合艦隊に砲撃を受けるという事件が相次いで起こり、毛利家は危機的状況にたたされます。
 
毛利家政府は8月晋作の謹慎を解き4カ国との講和談判にあたらせます。一方徳川「公儀」は 内外ともに危機的状況にあり、「朝敵」の状態にある長州を勅令を以て攻め込もうと軍を進めます。

これに対し、毛利家では「公儀」に恭順すべしとする一派が台頭。「公儀」の政策に異を唱えるべきであると考えていた晋作は、身の危険を感じ10月、 福岡に亡命。長州と先端を開こうとしていた徳川軍ですが各家の足並みが 揃わないこともあり、徳川軍総督徳川慶勝・参謀 西郷吉之助は禁門の変の責任者を処刑することなどの寛大な処分を下しました。この処分が下されたことにより毛利家では「公儀恭順」派の勢力が弱まり、11月晋作は下関に帰郷。晋作は「徳川との武力闘争も辞さず」とする「武備恭順論」― 武器を備えた恭順―を掲げ12月15日功山寺で決起し毛利家政府と対決。
 
慶応元(1865)年27歳の晋作は1月大田・絵堂の戦いで毛利家の方針を「武備恭順」に統一しました。

毛利家の方針を統一した晋作は長崎の商人 グラヴァーに渡英計画を持ちかけますが情勢を考えたグラヴァーは、晋作の提案に反対します。

4月、晋作は下関の港を諸外国に開くため奔走。これにより晋作は毛利家内の「攘夷派」に命を狙われることになります。同月 、晋作は四国に亡命。(閏5月に下関に帰着。)

この間徳川家では、長州討伐が不徹底であることから再度の長州との戦争が検討されていました。
 
 6月長州再征の勅命が下ったことにより再び長州と公儀の間で戦争が始まりました。

「第2次長州戦争」です。晋作は海軍総督に就任。奇襲作戦を行い、 見事、徳川軍をやぶりました。(9月長州戦争終結

 しかし、この激しい戦いは晋作の身体を蝕んでいました・・・。

 慶応2年9月晋作は喀血。療養生活に入りますが慶応3年4月14日、

 「面白きこともなき世を(に)面白く」

 の1首を遺し還らぬ人になりました・・・。 享年29。

 初代内閣総理大臣伊藤博文は晋作の生涯を

「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、
 
 衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」

 と詠んでいます。 
 
 この1首に高杉晋作という男の魅力が凝縮されているような気がしませんか?