第72回 講演 山本一力先生講演<幕末の土佐>を聴いて

11月7日、『あかね空』で有名な直木賞作家・山本一力先生の「幕末の土佐」と題したお話を伺った。江戸時代の初期(1606年頃)から日本では捕鯨が盛んであった。当時は小船で鯨に真っ向から向かっていき、一人の乗組員が鯨に飛び乗りエイヤと銛をつき刺す。この捕鯨方法は「つき取り式」という。鯨油を絞り取った後、鯨を海に捨ててしまうアメリカとは根本的に異なり日本人は鯨の肉を頂く。油は燃料に、骨やひげは工芸品に、毛は綱に、皮はゼラチンに、血は薬に、脂肪は鯨油に、採油後の骨は砕いて肥料にといったふうに命をかけて捕った「鯨の命」を一つも無駄にしない―「命と命のやりとり」であると山本先生はいう。この「つき取り式」捕鯨紀州から三陸海岸安房沖、遠州灘相模国、三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられ、やがて土佐へも伝わり、土佐安芸郡津呂浦において「鯨組」が形成された。14歳で「漂流」した「ジョン万次郎」こと中浜万次郎とその仲間たち―筆之丞、重助、五右衛門、寅右衛門もそのような鯨と人間の「命と命のやりとり」を間近にみていたものたちだった。万次郎、筆之丞、重助、五右衛門、寅右衛門らは天保12(1841)年1月29日 捕鯨の途中に難破。島々でさ迷うものの5月9日アメリカ船ハウランド号に救出された。紆余曲折を経て万次郎はアメリカで生活し1846(弘化3)年万次郎20歳の時ゴールドラッシュに遭遇。(それで得た資金をもとに)嘉永4(1851)年日本に帰国。帰国した直後の1852(嘉永5)年河田小龍の求めに応じアメリカでの体験を回想。小龍は万次郎の談話を『漂巽紀略』にまとめた。ご存知の通り、この『漂巽紀略』は龍馬ら土佐の志士に多大な影響を与えた。1860(万延元)年 万次郎 34歳の時 通訳として咸臨丸に乗り込みサンフランシスコに渡り活躍。慶応期には土佐の近代化に尽力し明治時代には英語教育に力を注ぎ明治31年(1898年)、72歳で死去

万次郎の仲間―筆之丞、重助、五右衛門、寅右衛門はどのような生涯をおくったか。
筆之丞は嘉永4(1851)年47歳の時 日本に帰国。安政6(1859)年 55歳の時 漁に出ないこと、異国のことをむやみに話さないこと、国を出ないことを言い渡され、生涯一人扶持をもらった。慶応元(1865)年 66歳で死去。

重助は日本帰国の夢を果たせず1845(弘化2)年ハワイで病死 31歳。

五右衛門は嘉永4(1851)年25歳の時 日本に帰国。嘉永5(1852)年 26歳の時 筆之丞と同じように漁に出ないこと、異国のことをむやみに話さないこと、国を出ないことを言い渡され、生涯一人扶持をもらった。慶応元(1865)年 33歳で死去。

寅右衛門は日本に帰らずハワイで生涯暮らしたという。詳しいことはわからないが日本からハワイへ来る者がいるとよく面倒をみたという。

「土佐は鯨の国である。」老公・山内容堂が「鯨海酔候」と称したことがそのイメージを強くしている。 捕鯨に従事した人々が歴史の波に自分たちの生きた証を残したことを忘れてはならない―山本一力先生の透き通ったような心に響く声からそんなメッセージを感じた。なんとも贅沢な時間でした。