<龍馬を語ろう> 第66回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第43話・感想



龍馬伝」第43話。「船中八策」。お話の時期は慶応3(1867)年5月〜6月。龍馬33歳。

今回は「四侯会議」・「船中八策」・「薩土盟約」をめぐるお話でした。

龍馬たち海援隊の面々が紀州徳川家との間で「いろは丸事件」の談判で躍起になっている慶応3(1867)年5月、京都では第15代将軍・徳川慶喜を中心に「国是」(日本の方針)を決定する会議が開かれました。この京都会議に集められたのは薩摩「国父」(当主の父)島津久光・越前老公(前当主)/松平春嶽・伊予宇和島老公/伊達宗城・そして土佐老公/山内容堂ら4人の実力者・前当主たちでした。慶喜島津久光ら「四侯」との会議なので「四侯会議」と呼ばれます。4月12日には島津久光が入京し、4月15日には伊達宗城が、4月16日には松平春嶽が相次いで入京。容堂は持病の「歯痛」と山内家内の意見の統一に手間取ったため5月1日一足遅れて入京しました。(冒頭の容堂が歯を押さえている理由につながります)5月14日「四侯会議」が開かれました。会議の議題は「兵庫開港」と「長州問題」―このどちらを先に解決するかということでした。京都に近い兵庫を開港することを「非」としていた孝明天皇が死去すると(慶応2年12月25日)3月5日慶喜は兵庫を開港することを諸外国に約束。そのように「兵庫開港」を掲げる慶喜と、薩長盟約の実行のため「長州救助」論を説く久光との間で紛糾。松平春嶽が「問題の同時解決を」を仲裁するものの、慶喜は「兵庫開港」を先に解決すべしと朝廷から勅許を取得。容堂はこの会議を馬鹿馬鹿しく感じたのでしょう。5月27日容堂は他の3候より一足先に京の都を去っていきました。京都の人々は容堂のこの間の行動を京都の人々は「ゆんべ見たみた五条の橋で 丸に柏の尾(山内家の家紋)が見えた」と揶揄したそうです。慶喜が勅許を得たことにより「四侯会議」は解体。この結果により島津久光の「徳川離れ」が進んだ、といわれています。

慶応3(1867)年6月初旬まで、龍馬は「いろは丸事件」の事後処理に忙殺されています。

6月9日、龍馬は後藤象二郎とともに帆船「夕顔丸」で京都へ向かいます。京都政局における山内家の議論を協議するためです。岩崎弥太郎は長崎を離れる龍馬のために餞別として馬乗袴を渡しています。弥太郎は龍馬を見送った感慨を日記に「余不覚流涙数行」(私は不覚にも行く筋もの涙を流した)と記しています。そして龍馬は京都へ向かう「夕顔丸」のなかで「船中八策」を起草したといわれています。


船中八策 原文

一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。

一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。

一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。

一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。

一、古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。

一、海軍宜ク拡張スベキ事。

一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。

一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。

以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。

「新政府樹立」の基本方針の草案とされている「船中八策」。・・・しかし本当にそうなのでしょうか。実は近年「船中八策」にまつわる多くのことが疑問視されているのです。

いくつか挙げてみましょう。

まず、この「船中八策」には自筆原本が存在しません。龍馬あるいは同行の海援隊書記・長岡謙吉が「八策」作成に携わったと断定するのは難しいでしょう。慶応3年6月15日に起草されたとする「船中八策」。しかし6月15日には龍馬たちは京都におり「夕顔丸」をおりているともいわれます。とすると「船中八策」の「船中」は妥当ではない、ということになります。さらに大正時代に『坂本龍馬関係文書』を編纂した岩崎鏡川は「船中八策」を「新政府綱領八策」と呼んでいます。同名の別史料(こちらは原本あり)が存在するため複雑です。また明治中頃・弘松宣枝はその著書『坂本龍馬』のなかで「船中八策」を「件議案十一箇条」と現しており「船中八策」の別ヴァージョンが存在した可能性を示唆しています。

※ 上の「船中八策」の話題は歴史家の桐野作人先生の研究成果を参考にさせていただきました。(参考文献:桐野作人「船中八策大政奉還」『坂本龍馬伝』新人物往来社、2009年 所収)

6月17日、土佐の重役会議で「政権返上論」を押し立てる方針を決議。後藤象二郎は土佐の政局論が「政権返上論」に決定したことを6月20日に小松帯刀に、21日に伊達宗城に告げています。

6月22日三本木の料亭で薩摩藩から小松帯刀西郷隆盛大久保利通土佐藩から後藤象二郎・寺村左膳・真辺栄三郎・福岡孝悌の両藩首脳および坂本龍馬中岡慎太郎が会合し7か条から成る「薩土盟約」が締結されました。この時の薩摩・土佐の主張は相反するものではなく京都政局の状況に臨機応変に対応しながら最後には「王政復古」を目指していく、そのような「盟約」でした。

・ 薩土盟約 原文

約定の大綱

一、国体を協生し、萬正萬国に亘りて恥じざる、是れ第一義

一、王政復古は論なし、宜しく宇内の形勢を察し、参酌協正すべし

一、国に二帝なく、家に二主なし、政刑ただ一君に帰すべし

一、将軍職に居て、政柄を執る、是れ天地間あるべからざるの理なり、宜しく候列に帰し、翼載せを主とすべし

右方今の急務にして、天地間常に之れある大条理なり、心力を協一にして、斃れて後已まん、何んぞ成敗利純を顧みるに暇あらむや、

慶應丁卯六月

約定書

一、 方今皇国の務め、国体制度を糺正し萬国に臨んで恥じざる、是れ第一義とす、其要、王政復古、宇内の形勢を参酌して、下後世に至りて、猶其の遺憾なきの大条理を以て処せん、国に二王なし、家に二主なし、政刑一君に帰す、是れ大条理なり、我が皇家綿々一系、萬古不易、然るに古郡県の政変じて、今封建の体となり、大政遂に幕府に帰す、上に皇帝あるを知らず、是を地球上に考うるに、其国体制度この如きものあらんや、然らば即ち制度一新、政権朝に帰し、諸侯会議、人民共和、然るに後庶幾くは以て萬国に臨んで恥じざらん、是を以て初めて我が皇国の国体、特立するものと云うべし、若し二三の事件を執り、蝶々曲直を抗論し、朝幕諸侯倶に相弁難し、枝葉に馳せ、小条理に止まり、却って皇国の大基本を失す、豈に本志ならんや、以後執心公平、所見萬国に存すべし、此の大条理を以て、此の大基本を立つ、今日堂々たる諸侯の責めのみ、成否顧みる所にあらず、斃れて後已まん、今般更始一新、天上萬民のために、寛仁明恕の政を為さんと欲し、其の法則を定むる事左の如し

一、天下の大政を議定する全権は、朝廷にあり、我が皇国の制度法則、一切の萬機、京師の議事堂より出づるを要す

一、議事院上下を分ち、議事官は上公卿より、下陪臣庶民に至るまで、正義純粋のものを選挙し、尚且つ諸侯も、自分其の職掌に因りて、上院の任に充つ

一、将軍職を以て天下の萬機を掌握するの理なし、自今宜しく其の職を辞して諸侯の列に帰順し、政権を朝廷に帰すべきは、勿論なり

一、各港外国の条約、兵庫港に於いて、新に朝廷の大臣緒太夫と衆合し、道理明白に、新約定を立て、誠実の商法を行うべし

一、朝廷の制度法則は、往昔より律例ありといえども、当今の時勢に参し、或は当らざるものあり、宜しく幣風を一新改革して、地球上に愧ざるの国を建てん

一、此の皇国興復の議事に関係する士太夫は、私意を去り、

二、 公平に基き、術策を設けず、正実を貴び、既往の是非曲直を問わず、人心一和を主として、此の議論を定むべし

右約定せる盟約は、方今の急務、天下の大事、之れに如くものなし、故に一旦盟約決議の上は、何ぞ其の事の成敗利純を顧みんや唯一心協力、永く貫徹せん事を要す

六月

この日薩土盟約締結の場に臨席していた土佐の寺村左膳は日記に「浪士之巨魁ナル吾藩ノ者、坂本龍馬中岡慎太郎」と記しています。

薩土盟約の大久保一蔵の「目障りごわんどなあ あん男は・・・」というセリフも龍馬を高く評価した大久保からすればあり得ないセリフです。

劇中、「船中八策」を書き上げた龍馬が影響を受けた人物として木戸孝允横井小楠吉田東洋高杉晋作武市半平太勝海舟久坂玄瑞河田小龍を挙げていますが横井小楠勝海舟以外 うーん?? 微妙です。

新撰組VS龍馬・中岡・陸奥のシーン/龍馬・中岡の相撲対決はおそらくフィクションでしょう。

この「薩土盟約」締結を契機に龍馬たちは「京都兵乱」をも主眼に置いた「新国家形成」を模索していくのです・・・。