<龍馬を語ろう> 第65回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第42話・感想

龍馬伝」第42話。「いろは丸事件」。お話の時期は慶応3(1867)年4月〜5月。龍馬33歳。

土佐「海援隊」長として新たな船出をした龍馬。しかし金銭面ではなかなか苦労をしていたようです。慶応3(1867)年4月6日、伊藤九三からの借金800両のうち600両を小曾根英四郎に立て替えてもらっています。また海援隊高松太郎は4月13日、中岡慎太郎の口利きで板倉筑前介(いたくら ちくぜんのすけ)という人物(公家の家来)から1300両もの大金を借り受けています。このように資金集めに駆けずり回っている海援隊にとって「いろは丸」の運用・航海は千載一遇の大仕事でした。伊予・大洲より「いろは丸」を借り受けた海援隊は4月19日、大坂へ物資を運ぶため長崎を出航(この日、後藤象二郎を通して岩崎弥太郎から海援隊士へ給金が支払われています)。

4月23日午後11時頃いろは丸と紀州艦明光丸が讃岐箱ノ崎沖で衝突。いろは丸は沈没します。紀州艦明光丸は2度の衝突でいろは丸の煙突と船首を折り、いろは丸は大破。断末魔の汽笛を鳴らしながらいろは丸は海の藻屑と消えていきました・・・。

龍馬たちいろは丸乗組員は命からがら、明光丸へと乗り移り鞆港へ上陸し、廻船問屋枡屋清左衛門方へ入り、すぐさま龍馬たちは魚屋万蔵方で明光丸船将高柳楠之助らと事故責任をめぐる談判を始めます。(4月24日〜26日)

第1の議事はいろは丸の積み荷は何か?/賠償責任の所在でした。

いろは丸の積荷は主に砂糖でした。(のちにいろは丸には銃器も積んでいたと龍馬が発言し問題になるのですが・・・ これは龍馬が多額の賠償金を得ようと画策したものかもしれません)

海援隊紀州家の態度を腹に据えかねたらしくこの頃、佐柳高次・腰越次郎らが海援隊離隊を願い出て明光丸に斬り込もうとしますが龍馬に諭され思いとどまっています。

4月27日 紀州重役の長崎御用のため談判は一時長崎の地へ持ち越されることになりました。

伊予大洲からいろは丸を借り受けていた龍馬たちは何としても賠償金を勝ち取ろうと必死です。
翌4月28日には、龍馬は千屋寅之助高松太郎らにいろは丸の『航海日誌』の写本を送り、その処置を伝えると共に一戦覚悟の決意を示しています。 

5月8日龍馬は自信の身に万が一のことが起こった場合を考えてお龍の身を三吉慎蔵に託す旨の手紙を認めています。5月10日〜13日にかけて龍馬・海援隊士たちが相次いで長崎入りします。龍馬は橋本麒之助をともない、紀州の高柳楠之助の宿を訪ねています。

5月15日長崎の地で、いろは丸事件の決着・解決に向けて再び紀州との交渉が始ました。

第2の議題はフ−ブランプ点灯の有無の問題でした。真夜中の航海でいろは丸がフ−ブランプを点灯していたか否か?また、それによって明光丸がいろは丸の存在に気づいたかどうか? これが争点でした。

5月22日談判の場が聖徳寺に移され再開。議論は紛々し単純な事故責任を問うだけの話になってきました。土佐紀州ともに主張を譲りません。龍馬は「万国公法」を取り出し応戦しますが、もはや落としどころがみつからないか、という瀬戸際の5月26日に後藤象二郎の助けがあり、龍馬は高柳楠之助と面談し、後藤象二郎と共に紀州藩代表茂田市次郎を訪ねています。また、この頃龍馬たちが作った「船を沈めた その償いは 金をとらずに 国をとる よさこいよさこい」という唄も爆発的に流行り民衆は完全に海援隊に同情的でした。5月28日、紀州側は薩摩の五代才助に調停を依頼。これにより翌5月29日「いろは丸事件」はとりあえず解決。のち7万両以上がいろは丸の賠償金が支払われることになりました。なお、この日、紀州の岡本覚十郎・高柳楠之助が龍馬襲撃のためその宿を訪れますが龍馬不在のため未遂に終わります。

今回のラストシーンはここから来ているのでしょうがフィクションでしょう。また紀州の岡本らが龍馬たちを「脱藩浪士」扱いしていますが龍馬はこの時もうすでに「土佐山内家家臣」に復帰していますし「海援隊」の長でもあります。それに紀州の家臣たちは龍馬たちの身分を知らないはずなのにいきなり「脱藩浪士」扱いは不自然ではないでしょうか。

ところで龍馬は「いろは丸事件」の間多くの手紙を認めています。

慶応3年5月28日付 お龍宛の手紙は「いろは丸事件」の経過がわかるものの1つです。

・ 原文
其後ハ定而御きづかい察入候。
しかれバ先ごろうち、たび/\
紀州の奉行(ブギヨウ)、又船将(センシヨヲ
)などに
引合いたし候所、なにぶん女の
いゝぬけのよふなことにて、度々
論(ロン)じ候所、此頃ハ病気(ビヨヲキ
)なりとて
あわぬよふなりており候得ども、後
藤庄次郎と両人ニて紀州
奉行へ出かけ、十分にやり
つけ候より、段々義論がは
じまり、昨夜今井・中島・
小田小太郎など参り、やかまし
やり付候て、夜九ツすぎにかえ
り申候。昨日の朝ハ私しが
紀州の船将に出合、十分
論じ、又後藤庄次郎が
紀州の奉行に行、やか
ましくやり付しにより、
もふ/\紀州も今朝ハ
たまらんことになり候もの
と相見へ、薩州(サツシウ)へ、たのみニ
行て、どふでもしてこと
わりをしてくれよとのこと
のよし。薩州よりわ彼
イロハ丸の船代、又その荷(ニ)
物(モツ)の代お佛
(ハライ)候得バ、
ゆるして御つかハし被成
度と申候間、私よりハ
そハわ夫でよろしけれども、
土佐の士(サムライ) お鞆の港(ミナト
)に
すておきて長崎へ出候
ことハ中/\すみ不申、
このことハ紀州より
主人土佐守へ御あいさ
つかわされたしなど
申ており候。此ことわ
またうちこわれてひと
ゆくさ致候ても、後藤
庄次郎とともにやり、
つまりハ土佐の軍艦(グンカン)
もつてやり付候あいだ、
けして/\御安心被成度候。
先ハ早〻かしこ。
  五月廿八日夕            龍
     鞆殿
猶、先頃土佐蒸気船(ジヨヲキセン)
夕顔(ユウガヲ)と云船が大坂
より参り候て、其ついで
に 御隠居様より(よふどふさま・土佐御いんきよ)
後藤庄次郎こと早々
上京致し候よふとの事、
私しも上京してくれよと、
庄次郎申おり候ゆへ、
紀州の船の論がかた
付候得バ、私しも上京
仕候。此度の上京ハ誠ニ
たのしみニて候。しかし
右よふのことゆへ下の関
へよることができぬかもしれず
候。京にハ三十日もおり
候時ハ、すぐ長崎へ
庄次郎もともにかへり
候間、其時ハかならず/\
関ニ鳥渡なりともかへり
申候。御まち被成度候。
○おかしき咄しあり、お
竹に御申。直次事ハ
此頃黒沢(クロサワ)直次郎と
申おり候。今日紀州
船将(センシヨヲ)高柳楠之助
方へ私より手がみおや
候所、とりつぎが申ニハ
高柳わきのふよりるすなれバ、夕
方参るべしとのこと
なりしより、そこで直
次郎おゝきにはらお
たてゆうよふ、此直次郎
昨夜九ツ時頃此所に
まいりしニ、其時高柳
先生ハおいでなされ候。
夫おきのふよりるすとハ此直
次郎きすてならずと申け
れバ、とふ/\紀州の奉
行が私しまで手紙
おおこして、直次郎ニハ
ことわりいたし候よし。
おかしきことに候。かしこ/\。
此度小曽清三郎
が曽根拙(セツ)蔵と名
おかへて参り候。 定めて
九三の内ニとまり候ハん
なれども、まづ/\しらぬ
人となされ候よふ、
九三ニも家内ニもお
竹ニも、しらぬ人と
しておくがよろしく候。
後藤庄次郎が
さしたて候。かしこ/\。
龍馬は「いろは丸事件」の解決後、本格的に新しい国家像を模索していくのです・・・