<龍馬を語ろう> 第53回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第32話・感想



龍馬伝」第32話。「狙われた龍馬」。お話の時期は慶応元(1865)年6月頃。龍馬31歳。

下関での「西郷吉之助―桂 小五郎」2者会談は、来るべき長州征討に向けての薩摩の対応を決めるため西郷が大坂に向かったことで「失敗」に終わりました。(西郷が下関に立ち寄らなかった理由を、劇中では薩摩藩船・胡蝶丸に「密偵」が潜り込んだためとしていましたがフィクションではないでしょうか?)

幕府からは「征討」の対象とされ、英米仏蘭4カ国からは砲撃の「標的」とされた長州藩はまさに「孤立無援」の状態でした。<長州「征討」のための将軍の江戸出発の予定日は5月16日でした。>


桂にとって西郷との下関での会談の機会は(桂が個人的に望んだというよりは)「四面楚歌」の長州を救う唯一の手段であったに違いありません。

ですから、西郷が下関にやって来なかったという事実は桂の心に「失望」と「怒り」を生むのに十分だったでしょうし、その「怒り」は龍馬や中岡慎太郎にも向けられたことでしょう。

そのような桂の心情を汲み取り、龍馬と中岡が京都の薩摩藩鄭に西郷を訪ね下関に立ち寄らなかったことを責め、その謝罪として薩摩藩が「薩摩藩名義で長州藩の武器類を購入すること」を決定しました。 これが慶応元(1865)年6月下旬のことといわれています。

これにより、薩摩・長州両者は「和解」へと少しずつ歩み寄りをみせることになるのです。

伏見の旅館・「寺田屋」で龍馬と近藤 勇・千葉重太郎が対峙するシーンがありました。このシーン自体はフィクションでしょうが、龍馬と新撰組との接点を示すいくつかの「証言」が残されています。

文久3(1863)年 勝海舟の「客分」になって間もない龍馬はこの年の1月22日大坂にむかう順動丸の中で幕府目付・杉浦正一郎と新撰組の前身・「浪士組」の結成について話し合います。この時、浪士の組頭の候補として坂本龍馬の名が挙げられていたというのです。

このエピソードは杉浦の日記に記録されています。

龍馬が実際に浪士組を率いることはありませんでしたが、龍馬が「浪士組」に「入隊」していれば我々が知っている龍馬とは異なった道を歩んでいたかもしれません。

また、龍馬の妻となったお龍は新撰組との「遭遇」について、後に回想録で語っています。

伏見に居た時分、夏の事で暑いから、一晩龍馬と二人でぶらぶら涼みがてら散歩に出掛けまして、段々夜が更けたから話しもって帰って来る途中、五六人の新選組と出逢いました。夜だからまさか坂本とは知らぬのでしょうが、浪人と見れば何でも彼でも叩き斬ると云う奴等ですから、故意私等に突当たって喧嘩をしかけたのです。すると龍馬はプイと何処へ行ってか分からなくなったので、私は困ったが茲処ぞ臍の据え時と思って、平気な風をして『あなた等大きな声ですねえ』と懐ろ手で澄まして居ると『浪人は何処へ逃げたか』などブツブツ怒りながら、私には何もせずに行過ぎて仕舞いました。私はホッと安心し、三四丁行きますと町の角で龍馬が立留て待て居て呉れましたかね『あなた私を置き去りにして余んまり水臭いじゃありませんか』と云うと『いんにゃそう云う訳じゃ無いが、彼奴等に引掛かるとどうせ刀を抜かねば済まぬからそれが面倒で陰れたのだ。お前もこれ位の事は平生から心得て居るだろう』と云いました。

龍馬の性格の一端を物語るエピソードです。

慶応元年12月14日付の岩下佐次右衛門・吉井幸輔宛の龍馬書簡には、たった一言ですが

新撰組が「ミブ浪人」と書き表されています。

池田屋事件蛤御門の変では長州人だけではなく土佐の人々も犠牲になりました。

この「ミブ浪人」という短い表現には龍馬ら土佐の人々の新撰組に対する歯がゆさ・無念さが込められているようにも思えます。

龍馬伝第26話以来ストーリーに無理が生じているように思います。

武市半平太切腹の閏5月頃には、龍馬はすでに薩摩におり、薩長の和解・締結に向けて動き出しています。

龍馬伝」の福山竜馬はあい変らず「薩摩」には入りませんねえ・・・。

次回、「亀山社中」はどのような「大仕事」をするのでしょうか??