<龍馬を語ろう> 第52回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第31話・感想

龍馬伝」第31話。「西郷はまだか」。お話の時期は慶応元(1865)年閏5月頃。龍馬31歳。

ようやく「亀山社中」が設立されました。

ここでいう「社中」とは「仲間たち」という意味です。

亀山社中」は旧神戸海軍操練所出身者と諸藩の有志によって慶応元年閏5月頃結成されました。

龍馬は「亀山社中」の様子を姉・乙女/姪・春猪(おやべ)に慶応元年9月9日付の手紙で知らせています。

・ 慶応元年9月9日付 姉・乙女/姪・春猪(おやべ)宛 龍馬書簡 原文抜粋

私共とともニ致し候て、盛なるハ二丁目赤づら馬之助、水道通横町の長次郎、高松太郎、望月ハ死タリ。此者ら廿人斗(二十人ばかり)の同志引つれ、今長崎の方ニ出、稽古方仕リ候。御国より出しものゝ内一人西洋イギリス学問所ニいりおり候。日本よりハ三十斗(ばかり)も渡り候て、共ニ稽古致し候よし。実ニ盛なる事なり。

私しハ一人天下をへめぐり、よろしき時ハ諸国人数を引つれ、一時ニはたあげすべしとて、今京ニありけれども五六日の内又西に行つもりなり。然共下さるるものなれバ、ふしみ宝来橋寺田や伊助まで下され候よふ御ねんじなり。

じつにおくにのよふな所ニて、何の志ざしもなき所ニぐずぐずして日を送ハ、実ニ大馬鹿ものなり・・・(中略)  

亀山社中」を結成し、「薩摩と長州の和解」に尽力しているとする龍馬の熱気が伝わってくるかのような手紙です。

元・越前松平家家臣で亀山社中および海援隊に参加した山本 龍二郎(やまもと りゅうじろう)こと関 義臣(せき よしおみ)は「海援隊の回顧」という史料のなかで「初めは唯、社中々々と称ったのを、土州藩に付属して後、海援隊と名づけた」と述べており、また歴史家の永見 徳太郎(ながみ とくたろう)は「長崎時代の阪本龍馬」という文章のなかで「頓集した、地名に因み、亀山隊、又は亀山社中とも呼んでゐた」と書き残しています。

この亀山社中結成の影には薩摩の家老小松帯刀の多大な尽力があったといわれています。

社中の面々はいつも「白い袴」を履いていたため、長崎の人々からは「亀山社中の白袴」/「亀山書生の白袴」と冷やかされたこともあったようです。

よく「亀山社中」を「日本初の株式会社」という言い方をしますが、それは△だと思います。亀山社中は現代的な意味での単なる「株式会社」ではなく、浪士たちが薩摩長州間の交易を円滑にすることを目標にしつつ、航海術の訓練・学問の習得・(幕末)政局の分析なども行なう「総合結社」と捉えた方が正確でしょう。それに亀山社中は「日本初の株式会社」ではありません。

幕臣小栗上野介が(亀山社中と同時期に)設立した「兵庫商社」が「日本初の株式会社」だといわれています。

とにもかくにも龍馬はこの亀山社中を足がかりに薩長の「和解」に乗り出していくのです。

龍馬がこの時期、目標に掲げた「薩長の和解」。この薩長和解・提携を最初に考え出したのは、実は龍馬ではなく筑前(福岡)勤王党の月形洗蔵(つきがた せんぞう)と早川勇(はやかわ いさむ)でした。月形と早川は早くから薩長和解・提携を唱えていましたが、元治元(1864)年に福岡に「勤王党弾圧」が起こると月形と早川は国許に呼び戻され、月形は「切腹」(享年 38) 早川は「蟄居」の処分を受けました(早川 蟄居時 34)

世にいう「乙丑の変(いっちゅうのへん)」です。<慶応元(1865)年>

1度は挫折した薩長和解・提携への志を受け継いだのは土方楠左衛門(ひじかた くすざえもん)や中岡慎太郎ら土佐脱藩の志士たちでした。土方も中岡も元・土佐勤王党員。特に中岡は文久政変(8・18クーデター)後、脱藩し<文久3(1863)年>都落ちした公家を追い九州三田尻招賢閣(しょうけんかく 当時の尊王攘夷派の秘密基地のような場所)に入り三条実美らの秘書役を務めていました。翌年7月18日の「蛤御門の変」では負傷しつつも戦いました。蛤御門の変後12月4日には西郷吉之助と面談し薩長和解・提携に脈ありとみた中岡は土方と協力し薩長和解の道を模索し始めます。龍馬の協力もあり慶応元(1865)年閏5月6日には西郷・桂両者が下関で会談することが決定しました。中岡この時28歳。

中岡が西郷と下関まで同行することになり、閏5月15日西郷と中岡は鹿児島を出航。
しかし、来るべき長州征討に向けての薩摩の対応を決めるため「西郷の意見も聞きたい」との大久保一蔵(利通)の要請があったため、西郷は下関行きを取りやめ、急遽
大坂へ向かうことを決意します。

閏5月20日西郷は佐賀関辺りで中岡と別れ大坂に向かいました。

閏5月21日、中岡はひとり龍馬と桂の待つ下関に向かいます。「西郷来ず」の知らせを聞いた桂は、

「それみたまえ。僕は最初からこんな事であろうと思っていたが、果して薩摩のために、一杯食わされたのである。もうよろしい。僕はこれから帰る」と烈火のごとく怒り

中岡は責任を感じ、今にも腹を切ろうとする寸前まで事態は悪化したそうです。

上川 隆也さんは誠実で、実直な中岡慎太郎を演じてくれそうですね。

結局、西郷が下関にやって来ることはなく、この時の「西郷―桂」の2者会談は失敗に終わります。

1度は挫折したかに見えた西郷・桂の会談ですが薩長「盟約」という時計の針は止まることなく進んでいきます。

龍馬も中岡も次第に時代の波に飲み込まれてゆくのです・・・。

中岡慎太郎に関しては「龍馬を語ろう 第9回」もあわせてご覧ください。