<龍馬を語ろう> 第50回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第29話・感想



龍馬伝」第29話。「新天地、長崎」。今回から第3部 「THE NAVIGATOR」に突入。

明治15(1882)年の東京・千住の「千葉灸治院」で千葉佐那子に治療を受けている岩崎弥太郎。弥太郎に取材をする坂崎紫瀾。このシーンはフィクションだと思われますが、この描写からいくつかのことを考えることができます。佐那子に灸の治療を受けながら、「胃は前から痛みゆうがですか」と坂崎に問われる弥太郎。実は弥太郎は明治15年当時、三井や大倉などの「反三菱系」財閥が共同出資した「共同運輸会社」と熾烈な戦いを繰り広げていました。そのストレスで弥太郎はこの前後、胃を痛めていたようです。弥太郎の灸治療のシーンと坂崎のセリフはこの頃の弥太郎の状況を踏まえてのものでしょう。

「千葉灸治院」を営んでいる千葉佐那子さん。明治15年当時は44歳でした。佐那子はこの年、華族女学校(学習院)の舎監を勤めています。「千葉灸治院」を営むのは、明治19(1886)年佐那子48歳の時のことです。

坂崎の「ご結婚は?」という問いかけに「いいえ」と答えた佐那子さんですが、近年「龍馬の7回忌を終えて元鳥取藩士・山口菊次郎と結婚した」という資料が発見されました。佐那子は父・定吉の反対を押し切って結婚。しかし菊次郎の身持ちが悪く10年も経たないうちに離婚したそうです。

その後も「千葉灸治院」の経営を続け、明治29(1896)年10月15日に59歳で亡くなりました。

その後友人・小田切豊次の手によって「千葉さな子墓」が山梨県甲府に建てられました。

佐那子の墓には、はっきりと「坂本龍馬室」 (龍馬の妻)と刻まれています。

佐那子は龍馬の死後も龍馬を強く慕い続けたのでしょう。

劇中、佐那子は兄・重太郎について語っていますが、重太郎は幕末から鳥取池田家に「剣術指南役/周旋方」として仕官していました。文久3年1月には龍馬や勝 海舟と行動をともにしていたことが海舟の日記からわかります。

のち、戊辰戦争に従軍し、維新後は北海道開拓使京都府の役人として活躍し明治18(1885)年5月7日に62歳で亡くなります。

「小千葉道場」の人びとの人生を辿ってみるのも面白いかもしれません。

さて、西郷吉之助に伴われて「新天地、長崎」へと足を踏み入れた龍馬たち。あい変わらず時間軸とエピソードに「ズレ」を感じますが今回のお話の時期は慶応元(1865)年閏5月頃でしょうか。龍馬31歳。

劇中では慶応元年5月頃に初めて長崎を訪れたかのように描いていますが、実は前年の元治元(1864)年2月23日〜4月4日までの間、海舟の従者として長崎に滞在しています。

文久3年に起きた5月10日に起きた長州の外国船砲撃―長州の「攘夷」行動の報復として英米仏蘭の4カ国は長州への砲撃を考えていました。幕府は4カ国の長州への砲撃を回避させるため、海舟をオランダ領事ボルスブルックのもとに派遣しました。龍馬たちが初めて長崎の土地に足を踏み入れたのもこの時のことです。またこの時海舟は「朝鮮半島視察」の命を受けていたそうです。結局、幕府の命により海舟の「朝鮮半島視察計画」は立ち消えてしまいましたが龍馬が朝鮮半島に実際に渡っていたら龍馬の世界観は異なったものになっていたかもしれません。

龍馬たちが薩摩藩の胡蝶丸に乗り込み鹿児島へ向かったのが、慶応元年4月26日のこと。

途中長崎へと立ち寄ったのが4月29日のこと。ここでも時間軸の「ズレ」が生じています。

劇中、龍馬は長崎で仕事をさせてほしいと西郷に頼みこみます。西郷は「じゃっどん、こん西郷吉之助に向こうて薩摩の有様まで語っとはちいとばかしおこがましかど」「坂本さあは一介の脱藩浪士ごわんど」と龍馬の申し出を拒絶します。

しかし西郷は前年の元治元年9月11日の海舟との会談で薩摩・長州・幕府などの「一国ずつ」の政治から日本全体を視野に据えた「共和政治」への大転換を遂げていました。劇中のように「薩摩一国」にこだわる西郷ではなかったのです。

劇中で西郷は龍馬を薩摩の手先であるかのように捉えているフシがあります。

これはおそらく小松帯刀が神戸海軍操練所の龍馬たちを薩摩に保護することを国許に報じた手紙のなかにでてくる「航海の手先」という言葉を意識してのことでしょう。

小松帯刀書簡 原文

「神戸勝方へ罷居候土州人、黒船借用いたし、航海の企これあり。坂元龍馬と申す人、関東へ罷り下り借用の都合いたし候処、能く談判も相付候よし。(中略)右辺浪人体の者を以て、航海の手先に召使ひ候へば、よろしかるべしと、西郷抔滞京中談判もいたし置き候間、大坂御屋敷へ内々御潜め置き申し候。」

ここでいう「航海の手先」とは航海をする際の案内人・ガイドというくらいの意味で、まさに「THE NAVIGATOR」といってもいい役割でしょう。

西郷の人物像を広く正確に捉えることを大切にして欲しいと思います。

また龍馬の「西郷さんもうそろそろ幕府の下から抜け出してみんかえ」というセリフ。身の置き場所もなく、薩長盟約も何も成し遂げておらず、京都政局もどう転ぶかわからない状態で、龍馬に言えたセリフではないでしょう。

龍馬が長崎の豪商・小曾根乾堂・英四郎兄弟に出会い、また小曾根兄弟の手引きでグラヴァーに出会ったのは元治元年の頃のことといわれています。

高杉晋作との出会いは長崎ではなく萩といわれ、龍馬が久坂玄瑞を訪れた文久2年に酒を酌み交わしたのが龍馬と高杉の交流の始まりではないかといわれています。

料亭・「引田屋」での薩摩・長州の一触触発の危機はまるまるフィクションではないでしょうか?

龍馬と長崎奉行・朝比奈昌広の関わりを示す資料は見つかっていません。

慶応元(1865)年閏5月頃「亀山社中」を設立した龍馬はその本拠地を長崎へ置くことになるのです。

次回はいよいよ龍馬が「薩長盟約」に向けての第1歩を踏み出すのでしょうか?