<龍馬を語ろう> 第49回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第28話・感想

龍馬伝」第28話。「武市の夢」。お話の時期は慶応元(1865)年閏5月頃でしょうか。龍馬31歳。前回の龍馬の「猿・・・」いや(失礼!)「大芝居」の続きから。劇中、龍馬の「告白」を聞き大慌てで山内容堂に報告に向かう後藤象二郎。後藤の報告を聞き、武市半平太の牢へと向かう容堂(!)容堂がどっかと地べたに座り込み半平太を「事情聴取」!

龍馬と弥太郎がやって来て半平太に「脱獄」を勧めるものの、半平太はすでに容堂に「吉田東洋殺害」を「自白」したため「切腹」という凄いストーリー(!)

「武市の夢」って何でしょう?フィクションもいいところです。

半平太は容堂の「勤王党」への弾圧が日に日に激しくなる中、「対決姿勢」を強めていきます。

容堂も相当の覚悟を持って半平太たち勤王党を断罪しています。

ですから劇中のように、「大殿様(山内容堂)は天下一の名君にございます!」 「武市半平太はワシの家臣じゃき」云々のセリフはあり得ないと思います。

岡田以蔵についても、入獄以来2度ほど「自白」をしており、半平太は以蔵の存在を「不安要素」に感じていました。「願わくば岡田以蔵を楽にさせて頂きとうございます」という半平太の容堂に向けたセリフもあり得ない、(というかひどい)と思います。

半平太は「断罪」される直前、下痢や発熱に悩まされ歩くこともままならない状態だったのです。

劇中の久坂玄瑞の最期を観た時、久坂の人物造形が非常に浅いと感じましたが半平太についても同じことがいえます。半平太は劇中の様に吉田東洋憎し一辺倒の人物ではなく、薩長土の間を周旋し、中央政局には「王政復古」をも唱えた堂々たる信念の人でした。

龍馬伝」のホームページで、「第2部は武市半平太に人気が集まるかもしれません」と書いていました。しかしあのような「聞く耳を持たない」武市半平太の下に人が集まるでしょうか?「龍馬伝」のキャラクターイメージのまま「退場」してしまうのは非常に残念です。

また劇中では「吉田東洋殺害」を半平太断罪の理由として重要視していますが、半平太に下された罪状(「申渡書」)には「東洋殺害の罪」については一言も触れられていません。

半平太の「罪」として挙げられているのは「吉田東洋殺害」ではなく、むしろ「京都での国事周旋」および「臣下の身分を越えた行い」という非常に曖昧なものでした。

・ 「申渡書」

「  武市半平太
 去る酉年(文久元年)以来、天下の形勢に乗じ、窃か(ひそか)に党与を結び、人心煽動の基本を醸造し、爾来、京師に於いて高貴の御方へ容易ならざる儀屡々(しばしば)申し上げ、将又(はたまた)ご隠居(容堂)様へ屡々不届きの儀申し上げ候事共、総じて臣下の所分を失し、上威を軽蔑し、国憲を紊乱し、言語道断、重々不届きの至り、屹度(きっと)ご不快に思し召され、厳科に処せらるべき筈の処、ご慈悲を以て、切腹これを仰せ付けらる」

慶応元年閏5月11日 武市半平太は壮絶な「三文字」の切腹を遂げました。

武市半平太最期ノ始末」という史料には半平太の最後の模様が記されています。

「半平太坐に著くと左右へ介錯人寿太郎・保馬著す、半平太より両人へ御苦労と挨拶致し、懐剣を取り抜き、中身を能く/\見、三宝へ置き、諸肩引き抜き、帯際を押くつろげ、懐剣を取り木綿切にて刃を押し巻き腹へ突き立て、三この通り三段に切り剣を右へ置き手を突き、うつ伏に俯す、是にて介錯人両方より脇腹を刺す、六刀計りにて絶息に至る」

半平太はある時、牢番の門谷貫助に「自分は三文字か、十文字の屠腹(とふく 切腹)法を用いたいと思うが<下痢や発熱で心身の衰弱が激しいので>尋常の事でも果たせるか(普通の切腹さえ行なえるか心配である)」と心情を吐露していますが、そのような心配すらも吹き飛ぶほどの壮絶な最期でした。武市半平太 享年37。

岡田以蔵も同日斬首。以蔵の首はかつて吉田東洋の首が晒された雁切橋に3日間晒されたそうです。岡田以蔵 享年28。

半平太の死によって1年8ヶ月に及んだ勤王党vs容堂の闘争はその幕を閉じたのでした。

神戸海軍操練所が閉鎖され行き場を失った龍馬たちは江戸から京・大坂へ向かいます。
慶応元年4月5日には薩摩の同志である吉井幸輔の手引きで土佐の土方楠左衛門と会談し、「薩長和解」を模索し始めます。5月1日には薩摩に身を寄せ、16日には薩摩を出立。5月23日には大宰府を訪れ、文久3年の「七卿落ち」で長州に庇護されていた公卿たちに「薩長和解論」を説いて周っています。過激尊攘派の有力公卿である三条実美東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)には特に、熱心に5月24日〜27日と3日間も続けて面談し、「薩長和解」の重要性を説いて周っています。薩長和解をなす為には三条や東久世らの「影の尽力」が不可欠だったのです。

東久世はこの時の龍馬の印象を日記に「良(龍)馬面会、偉人ナリ 奇説家ナリ」と書き残しています。

一方で閏5月5日には「薩長和解」実現のため、長州の桂小五郎ら有力家臣とも協力を始めます。

小松帯刀の尽力によって長崎に亀山社中を設立したのもこの5月だといわれています。

坂本龍馬31歳 「薩長和解」に向けて着実に歩み始めたのです・・・。

今回で第2部終了! 第3部は長崎から始まるようですね。