<龍馬を語ろう> 第47回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第26話・感想

龍馬伝」第26話。「西郷 吉之助」。お話の進行時期は龍馬が西郷に面談したと思われる元治元(1864)年8月中旬頃〜翌元治2(1865)年3月頃でしょうか? 龍馬30〜31歳。 前回少し書きましたが、勝海舟が神戸海軍操練所の頭取の役職を解かれたのが元治元年の10月21日。操練所の完全廃止が翌元治2(1865)年3月18日。<元治2年4月7日より、年号を「慶応」と改元

つまりごく大雑把にまとめれば、西郷との面談⇒操練所廃止となるわけです。

操練所の廃止決定後に、龍馬と西郷の会談を持ってきたのは西郷の存在を際立たせるための「演出」でしょうか?それにしても時間軸がむちゃくちゃですねえ。 劇中にはっきりと「時間のテロップ」を流したらどうでしょう?

劇中の会話にもおかしなところがありました。

西郷の「勝 麟太郎先生には前にお目にかかったこつがあいもしてな・・・ あんお人は幕府の中で一番時勢をようわかっちょいもす」というセリフ。西郷は、龍馬と面談するまで、海舟とは面識はないはずです。

西郷のセリフでもうひとつ気になったのが「日本ちゅう言葉でひとくくりにさる勝先生のお考えはおいに言わせれば甘すぎる。 あんお人が軍艦奉行を降ろされ、海軍操練所が潰されるちゅうとも当然でごわんそ」というセリフ。西郷は、後の海舟との会談で初めて海舟の人となりや考えを知るのです。

ですから、このセリフはあり得ないことがわかります。

 7月19日の「蛤御門の変」で(結果として御所を戦火に巻き込んでしまい、「朝敵」となってしまった)長州を追い落とそうと、幕府は7月23日に西国21藩に「長州追討」の勅令を下します。(正式な発令は8月1日)第1次「長州戦争」の始まりです。幕府は尾張の老公・徳川慶勝を対長州戦の総督の総督に、越前松平家の当主・松平茂昭(もちあき)を副総督に任命しました。そしてその「参謀」に命じられたのが西郷吉之助だったのです。

西郷は勝と出会うまで、「蛤御門の変」で御所に弓引いた長州に対しては厳罰を以て対処すべし、という態度でした。

龍馬が西郷と出会ったのはこの年の8月ともいわれていますが、何時出会ったはっきりしたことはわかっていません。(明治時代に編纂された『絶島の南州』には2月に龍馬が沖永良部島に謹慎していた西郷を訪れ、一晩中語り明かしたとあります (参考文献:住吉重太郎「薩摩の龍馬」 小椋克己 土居晴夫編『図説 坂本龍馬』 戎光祥出版  2005年所収)
また奈良大学佐々木克先生は「薩摩からみた龍馬」で、「龍馬が西郷に出会ったのは『勝―西郷会談』後」ではないか、と推測されています。

(参考文献:『坂本龍馬海援隊』 学研 2009年)

のちに勝に西郷の印象を尋ねられた龍馬は、「西郷というのは、わからぬ男だ。小さくたたけば、小さく響き、大きくたたけば、大きく響く。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口なら、大きな利口だろう。」と答えたといわれています。

あくまで厳しい姿勢で長州を罰すべしとしていた西郷が勝との会談に臨んだのは元治元年9月11日のことでした。

この時、勝は幕府の現状と長州への「征討」が無益であることを西郷に語り、長州を「征討」するよりも「共和政治」で新しい「国家」を作り上げることを強く勧めます。

勝とのこの会談で西郷は対長州「強硬論」から一転、長州に兵を進めることなく、蛤御門の変の「責任者」を処罰するだけで、長州の「処分」を済ませるという「寛大論」へと変わることになるのです。 幕府は西郷の意見を受け入れ12月には、「第1次長州戦争」は終わりをつげます。


(11月12日〜13日 益田弾正・国司信濃福原越後ら、「責任者」とされた3家老切腹 12月27日 長州「征討軍」解散)

勝との会談に衝撃を受けた西郷は大久保一蔵(後の利通)に宛てた手紙でその「衝撃」を述べています。


勝氏へ初めて面会仕り候処、実に驚き入り候人物にて最初は打叩く賦(つもり)にて差し越し候処、頓(とん)と頭を下げ申し侯。どれ丈ヶ(だけ)か智略のあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候。先ず英雄肌合の人にて、佐久間(佐久間象山のこと)より事の出来候儀は一層も越え候わん。学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候得共、現時に臨み候ては、此の勝先生とひどくほれ申し侯。

(元治元年 9月16日付)

「勝先生とひどくほれ申し侯」―勝との会談は西郷の「政治観」を大きく転換させた、そんなことがわかる手紙です。

龍馬たちはそのような西郷吉之助・小松帯刀・大久保一蔵・吉井幸輔らのいる薩摩へ活動に場を移します。

土佐での岡田以蔵毒殺未遂 これについてはよくわかりません。ただ以蔵が牢に入れられた時点で「「牢番らあと長州でどふやら、吉村虎太かどふやらなどゝ大声てはなし(話)をしよつた」といろいろとしゃべりたてていたようです。

また、劇中と異なり、武市半平太は手紙で以蔵のことを「あのような安方(あほう)は早々と死んでくれれば良いのに、おめおめと国許へ戻って来て、親がさぞかし嘆くであろう」と記しています。

半平太が以蔵の父・義平に謀り以蔵を「毒殺」する計画をたてますがこれは実行されなかったようです。

以蔵の「毒殺」については微妙なところで、半平太が性根の弱い以蔵が拷問に簡単に屈してしまうと心配した、以蔵が軽輩故に他の同志より一層激しく耐え難い拷問に遭うであろうと予想した、毒を送られた以蔵はそれを毒とは知らずに飲んだが死なず拷問に屈して白状したとか、毒を見破って憤りのあまり自白に及んだなどと、さまざまなことがいわれていて未だに「謎」に包まれています。