<龍馬を語ろう> 第40回  坂本龍馬書簡―池 内蔵太家族へ明かした志士の本心(ちょこっと感想)



「幕末維新 志士の手紙を味わう」 講座の第5回目に参加。

 「坂本龍馬書簡―池 内蔵太家族へ明かした志士の本心」というテーマで、龍馬が自分の弟の様に可愛がっており、のち亀山社中にも参加した池 内蔵太(いけ くらた)の家族に宛てた手紙3通と龍馬が自分の家族に宛てた長文の手紙のなかで内蔵太の死を嘆いた部分を読みました。

手紙の時期は内蔵太の家族に宛てた3通が文久3(1863)年6月16日・慶応元(1865)年9月9日・慶応2(1866)年1月20日のもので実家に宛てた長文の手紙が慶応2(1866)年12月4日のものです。内蔵太の家族に宛てたこの3通の手紙こそが龍馬の「政治観」や「心情」を最もよく表しているといわれています。

 ところで、今回の手紙で話題の主となっている池 内蔵太とは如何なる人物なのでしょうか?

明治16(1883)年に土佐出身の自由民権家でジャーナリストである坂崎紫瀾が著した龍馬の小説『汗血千里駒』には、「勇士・内蔵太」の項目が設けられ勇猛果敢な内蔵太の活躍が描かれています。

 内蔵太は天保12(1841)年に土佐小高坂(こだかさ)村の用人・池 才右衛門(さいうえもん)の長男として生まれました(母は杉氏だといわれます)。別名を細川左馬之助(ほそかわさまのすけ)、または細井徳太郎(ほそいとくたろう)と称しました。龍馬の手紙には「細左」などと略称で記されることがあります。 

安政4(1857)年 内蔵太17歳の時 岩崎弥太郎の門下に入り、学問を磨くとともにのちに亀山社中の同志となる近藤長次郎とも交流を深めます。 

万延元(1860)年12月 20歳で藩の留学生として江戸に出た内蔵太は、安井息軒のもとで学ぶ傍ら、翌年の文久元(1861)年4月には、武市半平太をはじめ大石弥太郎・河野万寿弥ら、のち土佐勤王党の要となる人物たちと交流を深めその結成に尽力しています。

しかし内蔵太の名は勤王党の名簿にはありません。これは過激行動に走りがちであった内蔵太の存在を半平太が危ぶんで名簿から削除したためだといわれています。

文久3(1863)年 内蔵太23歳の3月、藩命により再び江戸に出、5月3日には藩からの帰国命令を無視し大坂から長州へ亡命。「脱藩」(国抜け)を果たしました(内蔵太の「脱藩」により、内蔵太の母・妻子・馬公らは屋敷を追われ、8月14日には家督断絶に処されています)

「弟分」であった内蔵太の「脱藩」を耳にし、龍馬は内蔵太の家族に宛てて諌めの手紙を認めています(文久3年6月16日付)

 原文

いさゝか御心をやすめんとて、

 六月十六日に

 認候文。 直陰

龍馬よりも申上候。扨、蔵

が一件ハ今 朝廷の

おぼしめしもつらぬかず、土州

を初メ諸藩のとの様

がた皆〻国にかへり、蔵

が心中にハ思よふ土州

など世の中のあまりむつ

かしくなき時ハ、土佐の

との様を初、江戸でも京

でも唯へら/\と国家

をうれへるの、すべつたのと

かましくいゝひろき、当今

に至りていよ/\むつかしく

相成てハ国本を見つくろふ

とか、なんとか名をつけ

にげて行、このごろ将軍

さへ江戸へかへり候よふ

のつがふとなり、実に

此 神州と申義

理も勢もなく、

今上様をいづく

の地へおくやらさらにがてん

ゆかず、実にはづべき  

ことなり。此かずならぬ

我〻なりと、何とぞして

今上様の御心をやす

めたてまつらんとの事、

御案内の通り

朝廷というものハ国よりも

父母よりも大事にせん

ならんというハきまり

ものなり。

御親るいを初メ杉山

さんなども、を国を

後にし父母を見

すて、妻子を見すて

するハ大義にあた

らずとの御事ならん。

それハ/\実当時

のヘボクレ役人や、あるいハ

ムチヤクチヤをやぢの

我国ヒイキ我家ヒ

イキにて、男子とし

の咄にあらず。おまへ

がたを初、蔵がを

くさんたちも長刀など

ふりくり廻しながら、

ヘボクレ義論に

どふいしてメソ/\なき

だしなどしてハ、実

に蔵をはづかし

め候。龍ハ当時ハ

病気にてけして

きづかハしき事なけれ

ども、文などしたゝめ候ハ、

誠にいやなれども

鳥渡御咄申上候。

此次にハ私があね

にも文をやり申候。

このごろまことにめづ

らしき咄しが、たく

さんあり申候。弘井岩之助

のかたきうち○二条殿

内の人にて、宮中(キウチウ・みやつかへ)につか

ハれこれありしむすめ、

実に義のあるむすめ

にて、今でハ身をくがいに

しづめこれある事。○

龍がある山中にて女が

人にすてられてまよいいた

るを、金をあたへ老人を

もつておくりつかハした

る事など、其外色〻

御咄後より申上候。

                      龍拝

 池蔵尊母


この長文の手紙では

? 文久3年前期の政治状況を述べた後

? 内蔵太の弁明の形を借りて「御案内の通り朝廷というものハ国よりも父母よりも大事にせんならんというハきまりものなり。」と自分(龍馬)の「尊王論」を述べ

? とにかく「メソメソなきだしなどしてハ、実に蔵をはづかしめ」ることになりかねないのでそんなことにならないように

と諌めています。

内蔵太が長州入りを果たした文久3年5月は「攘夷熱」真っ盛りであり、来る5月10日には「外国船砲撃」が控えていました。内蔵太は長州入りして早々、遊撃隊参謀に就任します。先に掲げた『汗血千里駒』には長州の久坂玄瑞寺島忠三郎を前に堂々と議論をし、彼らに遊撃隊参謀に任命されるまでの様子がいきいきと描写されています。

8月17日には同じく土佐の吉村寅太郎らが結成した「天誅組」に参加しその「側用人」を務め、幕府天領大和国五条代官所を襲撃しますが、その直後の8月18日に文久政変が起き、勢いを失った天誅組は敗走。(吉村寅太郎は9月27日に戦死)

内蔵太は天誅組の主将であった中山忠光を連れ大和を脱出します(中山忠光は翌元治元<1864>年長州藩領で暗殺)

大和を脱出し大坂の長州藩邸に逃げ込んだ内蔵太はその後三田尻の「招賢閣」(しょうけんかく)に走ります。「招賢閣」は当時「親長州派・過激派」の拠点でした。内蔵太は中岡慎太郎が隊長を勤める「忠勇隊(ちゅうゆうたい)」に参加。元治元年7月19日の「禁門の変」では大砲掛として活躍。そののちは長州の内戦にも参加し戦い抜きました。

慶応元(1865)年25歳の内蔵太は、下関で偶然坂本龍馬に出会い、龍馬の薩長盟約締結運動に協力。亀山社中の一員になります。

龍馬は内蔵太との偶然の再会を喜びまたも内蔵太の家族に宛てて、手紙を書き送っています(慶応元年9月9日付)

原文

時々の事ハ外よりも御聞被遊候べし。然ニ先月 初五月;ナリシ長国下の関と申所ニ参り滞留致し候節、蔵に久しくあハぬ故たずね候所、夫ハ三日路も外遠き所に居候より其まゝニおき候所、ふと蔵ハ外の用事ニて私しのやどへまいり、たがいに手おうち候て、天なる哉天なる哉、きみよふきみよふと(奇妙奇妙と)笑申候。このごろハ蔵一向病きもなく、はなはだたしやなる事なり。中ニもかんしんなる事ハ、いつかふうちのことをたずねず、修日だんじ候所ハ、唯天下国家の事のみ。実に盛と云べし。

夫よりたがいにさきざきの事ちかい候て、是より、もふつまららぬ戦ハをこすまい、つまらぬ事にて死まいと、たがいニかたくやくそく致し候。

おしてお国より出し人ニ、戦ニて命ををとし候者の数ハ、前後八十名斗ニて、蔵ハ八九度も戦場に弾丸矢石ををかし候得ども、手きずこれなく此ころ蔵がじまん致し候ニハ、戦にのぞみ敵合三四十間ニなり、両方より大砲小銃打発候得バ、自分もちてをる筒や、左右大砲の車などへ、飛来りて中る丸のおとバチバチ、其時大ていの人ハ敵ニつゝの火が見ゆると、地にひれふし候。蔵ハ論じて是ほどの近ニて地へふしても、丸の飛行事ハ早きものゆへ、むへきなりとてよくしんぼふ致し、つきたちてよくさしづ致し、蔵がじまんニて候。

いつたい蔵ハふだんニハ、やかましくにくまれ口チ斗いゝてにくまれ候へども、いくさになると人がよくなりたるよふ、皆がかわいがるよしニて、大笑致し候事ニて候。申上る事ハ千万なれバ、先ハこれまで、早々。かしこ。

   九月九日        龍

    池 さま

    杉 さま

猶猶、もちのおばゞハいかゞや、

おくばんバさんなどいかゞや、

平のおなんハいかゞや。其

内のぼたもちハいかゞや。

あれハ、孫三郎、孫二郎お養

子ニすはずなりしが、是

もとがめにかゝりし、

いかゞにや時々ハ思ひ

出し候。

○あのまどころの島与

が二男並馬ハ、戦場ニて

人を切る事、実ニ高名

なりしが、故ありて先日賊

にかこまれ 其かず二百斗;なりしよし。 はら

きりて死たり。

このころ時々京ニ出おり候ものゆへ、

おくにへたよりよろしきなり。

然バお内の事、ずいぶんこいし

く候あいだ、皆々様おんふみつ

かわされたく候。蔵にも

下され度候。

私にハあいかわらず、つまらん

事斗御もふし被成候

に、おゝきに私方も

たのしみニなり申候。

あのかわのゝむすめハ、

このころハいかゞニなり候や、

あれがよみ出したる月

の歌、諸国の人が知りて

おり候、かしこ。

お国の事お思へバ、扨今

日ハ節句とてもめんの

のりかいきものなどごそ/\と、

女ハおしろいあぎのかまほね

より先キに斗、ちよふどかい

つりの面の如くおかしく候

や。せんも京ニてハぎおん新

地と申ところにまいり候。

夫ハかのげいしやなどハ、

西町のねへさんたちとハかわ

り候。思ふニ、然レ共あの

門田宇平がむすめ下本

かるもが、さかり三林亡(サンリンボヲ)など

などお出し候時ハ、そのよふニ

おどりハ致すまじく、

たあほふのよふたばかり

かわり候べし。

○時に広瀬のばんばさん

ハ、もふしにハすまいかと存候。

○わたしがお国の人をきづ

かうハ、私しのうバの事ニ

て時々人にいゝ、このごろハ

又うバがでたとわらハれ候。

御目にあたり候得バ、御かわ

いがりねんじいり候。

○世の中も人の心もさわ

いだり、みだれたり致候得バ、

かへりてしづまり候て、

治世のよふなり候。なり

かへりて一絃琴などおん

はじめ、いかゞ。かしこ。

○文おんこしなれバ、乙女におん

たのみぢきとどき申候。このころ

ハよきたよりにでき候。蔵にも

かならず御こし、かしこ。

 池 さま

     各女中衆       龍より

 杉 さま

この慶応元年9月9日の手紙では

(実家である坂本家に手紙を送った後、内蔵太の家族にも手紙を書き)

? 閏5月に下関で偶然内蔵太に出会い「きみよふきみよふと(奇妙奇妙と)」手を打ち合って喜びあったこと

? 一晩中「国事」を論じ、「もうつまらぬ戦は起こすまい、もうつまらぬ事で死ぬまい」と誓い合ったこと

? 付けたり部分で近所の人々の安否を尋ね、時々仲間に「乳母」の話などしては笑われていること

そしてこの手紙を自分の姉・乙女にみせるようにお願いしています。さすが龍馬、家族へのアピールも忘れていません。

翌慶応2(1866)26歳の内蔵太は1月の薩長盟約締結の場に参加。

薩長盟約締結の前夜の慶応2年1月20日、姪の春猪に手紙を書いても、緊張と興奮で眠れなかったのでしょう、龍馬は3たび内蔵太の家族に宛てて手紙を書きます(慶応2年1月20日付)

場所は寺田屋でしょうか? 京都薩摩藩邸でしょうか?

原文

池御一同

杉御一同

 先日大坂ニい申候時ハ、誠に久しぶりにかぜ引もふし薬六ふく計ものみたれバ、ゆへなくなをり申候。夫が京に参り居候所、又〻昨夜よりねつありて今夜ねられ不申、ふとあとさきおもいめぐらし候うち、私し出足のせつは皆々様ニも誠に御きづかいかけ候計と存じ、此ごろハ杉やのをばあさんハどのよふニなされてをるろふとも思ひ定而、池のをなんハいもばたけをいのししがほりかへしたよふな、あとも先もなき議論(ギロン)を、あねなどとこふじより、あせたしいうさるほねおりばなし、よめもともどもつバのみこみ、きくみゝたらずとふたつのみゝほぜくりあけてぞ、きかるべしなん。ある老人論じていう、女というものハ人にもよるけれど、高のしれたをんなめ、かの坂本のをとめとやら、わるたくみをしそふなやつ、あまり/\たらわぬちゑでいらざる事までろんじよると、すこしでもものしる人になれなれしくしたく、そふするうちになにとなく女の別もただしからぬよふニなりやすいものじゃ。なにぞききたくなると、男の方へたずねありくよふになり、かふいうとそのやミタ、思ひあたる人があるろふ。かの女れつじよでんなど見ると、誠に男女の別というものハたゞしい。男の心ニハ女よりハべして女がこひしい事もあるが、あの年わかい蔵太の玉のよふなるをよめごを、なにぞふるきわらぢのよふ思ひきりて、他国へでるも天下の為と思へバこそ、議理となさけハ引にひかれず、又〻こんども海軍(カイグン)の修行、海軍のというハおふけなおふねをのりまはし、砲をうつたり、人きりたり、それハ/\おそろしい義理というものあれバこそ、ひとりのをやをうちにをき、玉のよふなる妻ふりすて、ひきのよふなるあかごのできたに、夫さへ見ずとおけいとハ、いさましかりける次第なり、かしこ。

   正月廿日                     龍

 杉 御一同

 池 御一同

     あねにも御見せ。


この慶応2年1月20日薩長盟約締結前夜の手紙からわかることは

?「又〻昨夜よりねつありて今夜ねられ不申」と風邪を引いて(歴史的会談を前に興奮して?)眠れないこと

?「私し出足のせつは皆々様ニも誠に御きづかいかけ候計と存」と「脱藩」を初めて、「謝罪」している、

ということです。

今は詳しく言えないけれど・・・話せる時がきたら俺が何をやったのか詳しく話すからね!とでも言いたげな龍馬の「熱気」が伝わってくるかのような手紙です。

その後寺田屋事件で傷を負った龍馬は薩摩の三邦丸で薩摩へ向かいます。この三邦丸に内蔵太も同乗。しばらくして亀山社中の業務に復帰。内蔵太は龍馬に命ぜられ、社中で新しく購入した船ワイルウェフ号の命名式を執り行うことになりました。しかしワイルウェフ号は内蔵太の指揮のもと、長崎から鹿児島へ向かっている最中の5月2日暴風雨に巻き込まれ五島列島塩屋崎沖で沈没。内蔵太も溺死。海の藻屑と消えました。享年26。

龍馬は慶応2(1866)年12月4日付の家族に宛てた手紙のなかで、

「こゝにあはれなるハ池蔵太ニ而候。九度之戦場ニ出ていつも人数を引て戦ひしに、一度も弾丸に中らず仕合せよかりしが、一度私共之求しユニヲンと申西洋形の船に乗り、難に逢、五嶋の志ハざきにて乱板し五月二日之暁天に死たり。人間一生実ニ猶夢の如しと疑ふ。杉山えも此事御咄し被成度、元より其死たる岡にハ印あり。

右之内生残る者四人と云。」

と内蔵太の死を嘆き悲しんでいます。

慶応2年6月14日、龍馬は亀山社中の面々を連れて五島列島へ渡り、内蔵太らワイルウェフ号遭難者の慰霊碑を建てました。

海に沈んだ「陸の勇者」への「鎮魂歌」でした・・・。