<龍馬を語ろう> 第36回 高杉晋作の手紙を読む(ちょこっと感想)

「幕末維新 志士の手紙を味わう」 講座の第3回目に参加。

 「国事奔走と私事懊悩」というテーマで高杉晋作の手紙6通と関係史料・晋作の写真を読み解きました。手紙の時期は安政6年3月25日 晋作21歳の時のものから、薩長盟約締結直後の慶応2年2月26日 (晋作死去前年の28歳の時のもの)までの計6通。
 
 内容は、同志である久坂玄瑞・中谷正亮(なかたにしょうすけ 吉田松陰の友)・半井春軒(なからいしゅんけん 長州の軍医)に宛てて、安政の大獄の影響下、萩の野山獄にいる吉田松陰の安否を訊ね、晋作自身も「国事奔走」したいが家族の手前どうにも動くことができないというジレンマを綴ったもの <安政6年3月25日付>

妻・雅子に宛てて、「高杉の両親も井上(雅子の実家)も大切にせよ」、「武士の妻なのだから、気持ちを強く持って留守を良く守れ」「曽我物語」や「いろは文庫」などを読んで、「心を磨くことを心がけること」「武士の妻は町人や百姓の妻とは違うのだから」と「武士の妻」としての心得を綴ったもの <元治元年2月18日日付>

愛人・おうの(源氏名:此ノ糸)に宛てて、「人に馬鹿にされないように」「写真を送るので受け取るように」綴ったもの  <慶応2年4月5日付>

(妻・雅子宛の手紙は漢字が多く使われていて、愛人・おうの宛の手紙は平仮名が多く使われています 晋作の細かな心遣いが見て取れます)

奇兵隊士であり、そのパトロンでもある下関の豪商・白石正一郎の末弟・大庭伝七に宛てて、長州の藩論を対徳川路線に統一するために挙兵した<功山寺決起>直前にしたためられた晋作の「遺書」<元治元年12月中旬>

(私がもしも馬関で死んだ時は、招魂場へお祭り頂けますよう、お願い申上げます。)

<晋作が考えた「墓碑銘」>

奇兵隊開闢総督高杉晋作、則
 西海一狂生東生墓
遊撃将軍谷梅之助也

毛利家恩古臣高杉某嫡子也
 月 日
売国囚君無不至 捨生取義是斯辰
天祥高節成功略 欲学二人作一人

(墓前にて芸妓をお集め頂くこと、その他の件につきましても、お願い申上げます)

(命をかけた戦いを前にしても「洒落る」ことを忘れない晋作の心持ちをうかがい知ることができます)

木戸貫治(孝允)に宛てて、「父・小忠太が御書物掛(書庫番)を仰せつかったが父の性格では勤め果せられるかわからないので、木戸さんのお力で父の役職を替えて頂くよう殿に申し上げて頂きたい」と懇願したもの <慶応2年2月20日付>

同じく木戸貫治(孝允)に宛てて、薩長盟約締結直後、(西郷吉之助・小松帯刀らがイギリスに接近していることを受けて)伊藤俊輔(博文)を連れて、「情報探索」がてら、自分も長崎へ行き、イギリスと「お近づき」になりたいと認めたもの <慶応2年2月26日付>

と話題に富んでいました。

講義では、「晋作の弟子」で陸援隊士・維新後宮内大臣となった田中光顕の回顧録『維新風雲回顧録』から「晋作の刀」のエピソードに触れました。

光顕が十津川にいたときに、薩摩浪人・梶原鉄之助から譲ってもらった、安芸国佐伯荘藤原貞安(薩摩拵の長刀 晋作の写真の刀)の銘刀。

ある時、晋作・光顕・中岡慎太郎3名で談義も場が持たれ、その席で高杉が光顕の刀を欲しいと言い出し、断っても聞かないので「弟子にしてくれるなら」という条件で譲った・・・

というものです。

晋作がこの薩摩拵の銘刀を大切にしたというエピソードは、

「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」
伊藤博文に評された豪快なイメージだけではなく

「君臣の義」を重んじた武士・高杉晋作を浮かび上がらせます。「武家の世界に誇りを持つ」晋作の新たな一面を発見した講義でした。